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カムストック第七十一談「クママーク取材旅行顛末その二」

前回の続きです。

遭難したところまででした・・・


登山歴三十年近くにして、初めての遭難でした…

そう書いてて、今更とても怖い気持ちにとらわれ、
思わず、全文の構成を二部構成として、
一拍、気を落ち着かせる間を置きました。

一日あけて続きを書き出しています。

そう。
確かに山登りで大変な目に合ったエピソードは山ほどあります。
一つ間違えば遭難だよ、という危ない事態にも何度か陥った。
しかし、本気で遭難したと感じたのは初めてでした。
遭難ということは、死の危険が現実的に迫ったということです。
とにかく圧倒的に一人っきりだという事実が致命的でした。

もう一度状況をおさらいしてみます。

元の登山道からかなり下へ崩落した位置にいる自分。
しっかりとした足場もなく、
掴むものすべてがずるずると崩落していくので全然上へ戻れない。
水分不足と疲労で体力が限界に達しているのに加え、
落ちていきながら無理に踏ん張ったせいか、
体のあちこちが痛くて思うように動かない。
自分の周囲は一緒にずるずる落ちてきた倒木に固められている。
ともすれば上から見れば、倒木に埋もれているように見えたかもしれない。
倒木はずるずる落ちるが、実はとても重い。
その重さもまた上へ戻ろうとする動きを甚だ妨げる。

山域には誰もいないことは朝から痛いほどわかっている。
どんなに声を出したところで誰も助けてはくれない。

時間は午後五時を越えて、
やや薄暗くなってきている。
幸い寒い季節ではないが、
これで真っ暗になった場合、
ライトも持っていない。
そして何度も言うように水がもうほぼない。
非常時の食料もない。
こんな脇道、明日になっても人が通るあてがあるとは言えない。
万が一人が上を通ったとしても、恐らく上からここは見えない。

僕は手のだしようがないまま、そこにしばしじっと佇みました。
佇みましたといっても、
それ以上落ちないように斜面に踏ん張った状態で突っ張りながら…

しかし
とても不思議なことに、
その時、全くパニクったりしなかったんです。
むしろ大したことはないように思う自分がいました。
そしてそんな自分をとても意外な目で見ているもうひとりの自分がいました。

それが冷静だといえるのかともかく、
僕は溜息をついてスマホを操作し始めました。
その溜息は例えば、

「ハア、やれやれ、また山手線止まってるよ」

とか、そういう程度の溜息でした。

僕はスマホで119に生まれて初めて電話かけました。

電話かけながら、
これで救助がいつ来るだろうとか、
かなり謝っても、これどう見ても山なめてた男の典型だなとか、
「岳」の一話みたいになってしまったなとか、
その日泊まる旅館に早く連絡入れないととか、
下手したら助けてもらった後、旅館いけるかなとか、
明後日の歌舞伎見る予定が無理かもとか、
東京帰る夜行バスに間に合うだろうかとか、
家族に怒られると、もう山に行きにくくなるなとか、
そんなこといろいろ考えてました。

でも、繋がりません。

次に110にかけました。

繋がりません。

よく見るとついさっきまで余裕で検索とかできてたスマホの電波が、
全然繋がらない状態になっています。
全く肝心な時にいつも使えないな、アンドロイド!

僕はまた溜息をつきました。
それは例えば、

「ハア、やれやれ、また栄治郎、テンション低いよ」

くらいの溜息でした。

そこから何度も電波の復帰を試み、
再起動なんかもして
何度も電話をかけてみましたが、
全く繋がりませんでした。
そういう地帯に入ってたのでしょう。
やはり山登りには衛星携帯持たないとダメだと痛感しました。

ともかくそこで、
救助を呼ぶということができないことが確定したのです。

その後の自分の感情の流れは、
もう一人の観察者たる自分にとって驚愕のものでした。

何と、僕はその時点で

あきらめたんです。

「もう知らんわ」

まるですねた子の態度のように若干半笑いでもありました。
かといって何に対してすねているのかもわかりませんでした。
とにかくあまりのしんどさと
スマホの使えなさに対してキレて、
もういいよ、って投げやりになってふてくされたのでした。
そして脱出のためのすべての努力をやめ、
ただぼんやりと、
しばしふてくされて動きを止めました。

まるで

はいはい、もう無理ですわ僕

と言ってリタイアボタンを押してゲームを終えるというような
それでゲーム代千円くらいが泡と消えたみたいな
それくらいのあまりに軽い、投げやりでした。

何なんだこの感じは?

そこにはそんな自分の態度に激しく疑問を持つもうひとりの自分がいました。

この事の深刻さの認識のなさは何であろう?
危険のない平和病というのはまさにこういう切羽詰った瀬戸際で
こんな形で致命的に出てしまうものなのか。
そういえば、あの東北の震災の際に、
津波がすぐそこまで迫っているのに、
マジかよとか言って笑っていたり、
ふざけていたりしている人々の映像を見たことがあります。
人間には、余りにリアルな危険事態を受け入れることができなくて、
そんなわけないと無理に思うようになる性質みたいなものがあるそうです。
その逃避楽観本能みたいなものは恐らく
都市の生活で益々強化されているようにも思えます。

この遭難時の僕の状態は、
まさにその性質に支配されていたのだと思います。

事の深刻さを十分に頭で理解していながら、
体が無理に楽観的に反応するので焦らない。
むしろ自分のため「余裕」という名のある種の一人演劇を開始する。
その演劇の中では、この事態も所詮は日常の延長の虚構。
その演劇には先があり、何らかの落としどころに繋がらないはずがない。
そしてそれがいかに悲劇的結末であれ、
演劇、虚構である限り、その夢がさめれば、日常は何食わぬ顔で戻ってくる。

もうひとりの自分はその時、そんな分析を冷静にしていたのです。

ここにおいて、
投げやりになった自分
他人事のように分析をしている自分

この両者とも、全く現実の危機を受け入れてません。

一体これはどういった現象なのでしょうか?
僕の生きる世界が虚構にまみれすぎていて
こうなったのでしょうか?
僕はとにかくひたすらそんな自分が不思議でならなくて、
いつまでもこの異常事態における異常な自分の感情の流れについて考え続け…

いやいやいやいや、
何とかせんと死ぬから!


急に僕はそう自分に言いました。
大きな声に出して言いました。

そして上を見上げました。
生きるためにはこれを登るしかないのです。

しかし今の体力状態とこの斜面の状況だと、
とても元の山道に戻ることは不可…

いやいやいやいや、
登らんと死ぬから!


また声に出して言いました。

ここで無理に登り始めると
余計谷底に落ちてしまう可能性もあるから、
ここは動かない方が…

いやいやいやいや
動かなかったら死ぬから!


声に出して言いました。

声に出して言うことって、
とても力が発生することなんです。

時計を見て、
またさっきと同じいろんな俗事の心配がよぎりましたが、
とにかく

いやいやいやいや
生きてないと!


これも声に出して、そして僕は崩落の斜面を登り始めました。

今度はがむしゃらに急がず、
一歩一歩確実に掴める木と、
崩れない足場と、
そこへ乗せる足の体重配分を考えて。
まるでそれはロッククライミングでした。
やったことありませんが。
もう日暮れとかも考えないでゆっくり登りました。
とにかく慎重に、そして確実に。
少しづつ少しづつ、
何度も押し戻されながらも、
ものすごい集中力で、
本当に少しづつ登りました。

これぞ火事場のクソ力というやつです。
疲れは全然感じませんでした。
それほどに針に糸を通す慎重さと集中で登っていました。
他に何も考えず、
ただ、手を掴む場所と足を置く場所のことだけ考えて。

どれくらい時間がかかったのかわかりません。
とにかく気がつくと僕は
崩落した斜面を登りきり、
元の山道に戻っていました。

よっしゃ!

と大きな声で叫んで
ペットボトルに残された水の最後の一滴をゴクリと飲み込み、
大の字になって十分ほどうたた寝しました。

それから僕は起き上がり、
もはや引きずるしかない重い足を再び奮い立たせ、
下山道を先に進みました。
案の定、斜面の先の登山道は何食わぬ顔で安全に続いています。
なぜこっちを先に確認しなかったのかという後悔も
今となっては無意味。
幸いまだ日は暮れていません。
これで俺は助かったのだ。
もちろん反省、後悔いっぱいあるけど、
これ以上の幸せがあろうか。

自分は死の淵から這い上がった

その高揚だけで疲れは紛れました。

すると進んでいく道の先で何かの規則的な音が聞こえます。
しばらく行くと道の途中にドラム缶があって、
そこからホースが下へ伸びていて、
何とそのドラム缶には水が溜まっている!

これは水場ではないか!

ホースで下の川から水を組み上げているのです。
聞こえた音はポンプのモーター音でした。
そのドラム缶に溜まっていた水はかなり濁っていましたが、
ポンプによって次々と新しい水が送り込まれていました。
そしてそんな水場は地図のどこにものっていませんでした。

僕は感激していました。

これは褒美ではないのか!

ここで僕はあらためて
玉置神社の伝説を思い出します。
呼ばれなければたどり着けない、
一筋縄ではいかない神社。

その神様に呼ばれた自分は試されているのだと本気で思いました。

熊野奥の院の神は、
その森の生死の境の世界の何たるかを今、
迷い込んだ迂闊な人間に味わわせている。
死の淵から帰還した人間へ、
今度は生命の水をお与えになり、
生命の何たるかを教えたまう


僕はその濁った水を空になったペットボトルでくんで、
浴びるように飲みました。
1リットル以上飲みました。
続いて、先程の遭難でドロドロになった全身にその水を文字通り浴びました。

心は歓びに満ち溢れ、
初めて経験する聖なる思いに包まれていました。

すると、
水に夢中で気づかなかったのですが、
そのドラム缶の脇に山上からはるか下界へと伸びる一本の
銀色のレールのようなものがあります。

何か金属的な音が上の方からするなと思ってたら、
なんと、
その銀色のレールを伝って
エレベーターのように昇降する簡易なトロッコと、
それに乗った見知らぬおじいさんが
ゆっくりと、ゆっくりと僕のいるところへ降りてきました。

まさにそれは天界よりの神の降臨とも見紛うタイミングと光景でした。

「その水、きれいやないで」

トロッコおじいさんは言いました。
そのおじいさんは林業で働くおじいさんでした。
そのトロッコは木材切り出し作業の移動用機械。
そしてその水はおじいさん達が作業で水が必要な時に使う水で、
手を洗ったりする水。
それで濁っていたのか…

でも全然そんなことは構いませんでした。

全然そんなこと構わないんですとおじいさんに言いました。

「登山か?」

トロッコおじいさんは怪訝そうに僕に尋ねました。
もちろんこんな日暮れ時です。
怪訝な表情になるのも無理はない。
僕は手短に、道間違えたり、落ちたりして、
こんな時間になってしまったとおじいさんに説明しました。

トロッコおじいさんは

「へえ…」

と言ってしばらく僕を見つめ、
ドラム缶でタオルを絞ったりしていました。
僕はその傍らで座って満足気になおも立ち去り難く水を飲んでいました。
するとトロッコおじいさんは僕にこう言いました。

「でも、この道、この先で崩れてるで」

僕は一瞬意味がわかりませんでした。

え?

「二年前の台風で崩れたんや。通られへんで」

え??

僕は頭が混乱し、どう言っていいものかわからなくなりました。

え????

そんなことどこにも書いてなかったよ。
最新のはずの地図にも載ってない事実だよ。

ってことは、
もはや引き返さなくては助からないのか!

ひ、引き返す?

ここまで7時間かかった道を?

引き返す?

無理だ!
今度こそ八方塞がりの遭難だ!

うわぁぁぁぁぁ…どうしよぅ…

思わず最後の叫びは音声化してしまいました。

その言葉を聞いたトロッコおじいさんはこう言いました。

「せやからまあ…これに乗せてやれることはできるけどなぁ」

え?

「せやからまあ…これに乗せて君を上まで運んでいくことはできるけどな。危ないけど」

う、上まではこんでいく?
俺を?

「わしは登山の道のことはようわからんけどな、上に標識があるわ。
あんた、上切原に降りていく予定やったんやろ?
わしは道のことはようわからんけど、
尾根伝いに道があって、


→上切原

って書いてるとこがあるわ。
そこまでこれに乗せて、運んでいったることはできるわ」


…あわあわ…あわあわ…

「でもそうするしかないやろ」

はい!

ああ…

何とご親切な!

「乗り!」

ここで僕はまたしても親切な十津川のおじいちゃんに出会ったわけです。
しかし僕は事態の推移に若干ついていけず、
トロッコに乗るように促されて、
何か今から思えば当たり前のことのように、
はい、すいませんね
なんて軽く頭を下げながら乗りこもうとしてたのですが、
ふと、我に返り、大きな声で

ありがとうございます!
助かりました!


と叫びました。

トロッコおじいちゃんは、
そんな時ですら、

「ごめんな、乗りにくくて」

などと言ってくれてました。
トロッコは木材を運ぶこともできるようになっているので縦に長く、
僕はその一番下の底部に足をつき、
なるべく細く直立の姿勢になって
(トロッコの幅から腕や足がはみ出ると周囲の木にぶつかるのです)
ほぼ、仰向けに寝ていました。
その形状が文章で伝わるかどうかわかりませんが、
僕の態勢は外から見ると、
コスモカプセルみたいなものに直立しているような雰囲気だったでしょう。
エヴァのエントリープラグが後ろ斜めに進んでいくようなイメージです。

トロッコは動き出し、後頭部斜め上に向かってゆっくりと登っていきます。
初めての乗り物でした。
そして死ぬまでに二度と乗らない可能性が高いです。
たまに油断して腕がはみ出ると周囲の木にひっかかりそうになってヒヤリとしました。
でもとてもゆっくり進んでいくので、
それほど危険ではありません。

僕はゆっくりと上昇しながら、
いろんなことを考えていました。

中でもこの、

上昇している…

という状態をことさら神話的に解釈していました。

崩落斜面への落下から死の淵を覗き見、
生への当然の執着による力で、
自力で上昇、
そして今さらに、
その体験を経た上で、
僕はさらなる上昇を味わわせられている。
しかもそれは


他力の上昇。

本当にここへ来て、
さっきよりもなお一層、
玉置神社の霊力というものを、
そして熊野の森の生死往還の因果の世界に、
今自分はもろに直面しているのだという
そんな確信にとらわれていました。

そしてここは紛れもなくおいそれと踏み込んではいけない

魔界

であって、

そこへ一度踏み込んだからには、
自分一個の生命が、

いかなる意味を持ち、いかに意味をもたないか。

というようなこと、あるいは、

生死をめぐる世界において、
どのように人間が存在するのかを、

否応なく知らされるゾーン

であるということ。

神話的世界というのが、
このように熊野レベルまで土地と一体化すると、
今起こっているような、
物理科学的な現象と神話的解釈の物語世界が
信じられないくらいにシンクロした現実が存在し、
それこそまさに


奇蹟

であるという風に思いました。
気が触れたわけではありませんよ。
そんな風に思わざるを得ない
出来事や風景の連鎖が現にあったのです。

さて、トロッコエレベーターは停車しました。
そこにはトロッコおじいさんの作業ゾーンみたいな一角があって、
切断した木材がいくつか並んでいます。
おじいさんの弟子みたいな若い人が一人そこで作業していました。
おじいさんが僕を乗せてきたので、
その人は少しびっくりしていました。

「ほらこれこれ、これ道やと思うねん」

おじいさんはある木の幹をさしました。
そこには小さな板がはりつけてあって、
おざなりな字ではあるが、確かに

→上切原

と書いてます。
地図を確認しましたが、
これがどこの道であるか全くわかりません。
恐らく地図にはない臨時の道なのでしょう。
ひょっとすると、
崩落したという僕が歩いていた下山道に変わって
急にしつらえた迂回道なのかもしれません。

しかし、僕はそのトロッコおじいさんを当然全面的に信頼し、
その道をゆくことにしました。

ありがとうございます。

と丹念にお礼を言って、
一人森の奥へと分け入りました。
分け行ってから思ったんですが、
ではあのおじいさんと弟子はどこから来て、どう帰るのでしょうか?

謎です。

しかし時間的にはこの辺りで六時前。
辺りは薄暗くなってきています。
迷ってる暇はないし、
もう二度と迷うことはできない。
強い意志と集中で下り進みました。

ここでも道しるべが問題になりました。
やはり急造の臨時登山道らしく、
道しるべが本当に心もとないのです。
白いスズランテープを裂いた細いひもが
心もとなくたまに木と木の間に渡されているだけで、
その紐のわたされてる方向に進むわけです。
が、時には切れてひらひら舞っています。
しかも何度もそれを見失う。
さらに暗くなってきてよく見えなくなってくる。

足下を見ても道はもはや道とは全然わかりません。
全く踏み跡もなければ、
道とわかるように、
周囲の木や草を抜いてないので、
本当に頼りはスズランテープだけ。
それでも行くしかないし、
絶対にたどり着くという確信をもって
僕は進み続けました。

何というか、
その時点で何も怖くなくなっていました。

ここまで奇跡的に助かって生きてきたじゃないか。
ここからたとえ日が暮れようが、
死ぬことはない。

絶対なんとかなる。

そう信じていました。

すると
カラスの大群がものすごく恐ろしい鳴き声を一斉にたてました。
ほぼ時を同じくして、
何らかの獣の咆哮が聞こえてきました。

森が獣達の時間帯に入ろうとしていました。

僕は普通の恐怖をそこでまた取り戻しました。
すると疲労もまた一気に戻り、歩みが遅くなりました。

しばらくして
そのスズランテープのはっきりしない山道が、
明らかな登山道に合流しました。
これはきっと、先程の途中で崩れてると言われた道の崩壊部を越えた続きに違いない。

よし、先が見えた!

そう思って、下っていくと、
森の木立の隙間から、
徐々に町らしき光が見えてきました。
森の木々に覆われてて山道はすっかり日が暮れたと思っていたのが、
下界はまだ夕焼けの時間帯でその明るさが隙間から見えるのです。
時刻は六時過ぎ。

しかしもはや地図上でどこにいるのかがわからないので、
どのくらい歩いて下れば町に着くのかは目分量です。
徐々に下りてきてるのは実感できるのですが、
あとちょっとだと感じてからがなかなかたどり着かない。
そしてそのあとちょっとと勘違いしてしまった体が
無理をして、余計に潰れていく。

そうこの時点でもう下半身は腿から爪先に至るまで、
あらゆる意味で潰れてました。
それでも歩くしかない。
つらい。
でも幸せな気分も伴っていました。
もうここまで来たら、確実に遭難するようなことはないと思ったからです。

そしてついに、六時半。
夏の長い太陽がまだ沈まぬうちに、
僕はとうとう上切原という、
夕日を浴びて本当に美しく、
本当に静かな、
大きな十津川沿いの小さな農村に下山しました


登山道が唐突に終わると、
その続きは、民家と民家の間の路地です。
それがまた風情がある家々が並んで、
何か本当に天国に出たような気分になりました。

どこかで座り込みたかったのですが、
民家の私有地ばかりで、
どうも場所がなく、しばしきつい西陽の中を彷徨い、
公園みたいなところに一本の木が木陰を作っていて、
その下に荷を下ろし、座り込みました。

塾か何かに行くんでしょうか。
公園正面の家からおばあちゃんと女子中学生が出て来て、
女の子は自転車に乗ってどこかへ走り去りました。
よく見るとその家は酒屋でした。
そして何とその家の前には自動販売機があるじゃないですか!

僕はすぐさま財布を取り出し、
ジュースを買いました。

まずネクター一気。
次にキリンレモン一気。


ビタミンと糖分と水分を体が異常に欲しているのです。

そしてひと呼吸落ち着いて、
今日泊まるはずの湯の峰の宿へ連絡します。
六時に着く予定でしたから、
何本か着信が入っていました。
もう7時に近い。

電話して事情を説明し、
今からだと道の駅まで出ても、
最終バスに間に合わないことを説明しました。
どうしましょう?と相談すると

ここでもまた、親切なことに

道の駅までなら迎えに来てくれるというのです。
湯の峰から道の駅本宮まではかなりの距離があります。
当初はバスで移動する予定でした。
そこをわざわざ迎えに来てくれる。

ありがとうございます。

しかし道の駅本宮というところに行くためには、
大きな大きな十津川を渡らなばなりません。
地図で見ると下山道から続きで橋から対岸につながっていたんですが、
どうやらその道ではないところに降りてきたようなのです。
遥か遠くに巨大な橋が見えます。
しかしその橋まで行かないと宿の人に会えない。
僕はまた最後の力を振り絞り、
リュックを背負い、
村の中を遥か向こうの橋に向かってトボトボと歩き始めました。
きつかった。
しかし何度も言いますが、
そこは本当に風景の美しい村でした。
それが安らぎでした。

三十分くらい歩き、
とうとう橋の下に着いて愕然とします。
何と下から橋に上がれないのです。
その橋はどうやら高速道か何かみたいで、
下から上がっていく手段がない。
下手したら歩行者も通れない。
僕は橋を真下から見上げながら、
またもやへたりこんでしまいました。

またもや上、下の神話的構造が現れたのです。

このままだと宿の人と落ち合えません。
宿の人にお願いしてここまで迎えに来てもらうか。
でも橋の下までうまく来れるのだろうか?
電話の感じでは湯の峰の宿の人は、
十津川の対岸の地理は全然わからないみたいでした。
それだけ離れているのです。
湯の峰温泉は熊野本宮からさらに歩いて一時間くらい奥地にあるのです。

どうしようか…と思ってももう頭が働かない。

そんな時、車通りの全然ないその道に、なんと一台の軽トラが走ってきました。
僕は思わず手を上げていました。

生まれて初めてのヒッチハイクでした。

運転してたのは若い活きのいいお兄ちゃんでした。

僕は事情を簡単に説明し、
道の駅本宮まで乗せて行ってもらえないかと頼みました。

するとお兄さんは二つ返事で、いやむしろ食い気味で、

いいですよ

と言って僕を乗せてくれました。

またもや何と親切なことだ!

しかも汚いですからといって、
僕の乗りこむ助手席のシートに、
たまたまあったスーパーの袋をしいてくれます。
汚いのはむしろこっちなんです。
何せ遭難しかけてドロドロでしたから。

そのお兄ちゃんは、トロッコおじいさんと同じく、林業の方で、
山に詳しい人でした。
短い時間でしたが、車内で僕は、
今日いかに親切な人に大勢出会ったかということをまくし立てていました。
彼は、さらに一つ向こうの橋まで迂回して対岸に渡り、
僕を道の駅まで送ってくれました。

ありがとうございます!
ありがとうございます!
十津川万歳!


道の駅にはまだ宿の迎えは来ていませんでした。
僕はそこにあった自動販売機で再び、

ネクター一気。

続いて

キリンレモン一気。

をしました。
キリンレモンを飲み干した頃、
宿の人が迎えに来てくれました。

運転はおじいさんでした。

その湯の峰のおじいさんも親切ないい人でした

そしてまたもや東京にいたことのある人でした。

何かこの辺りには東京にいたけれども、
今じゃひっそりこの熊野の森に生きてるおじいさん
っていうのがいっぱいいるんだなと思いました。

そしてみんな親切だなと。

そして湯の峰温泉の宿に到着したのが八時。

ドロドロの姿と、
遅くなってしまった夕食準備で
宿のおかみさんはちょっと不機嫌でしたが、

ともあれ、
こうして取材旅行熊野激動の第二日は終わりました。

寝る前の時点で、僕はもうまともに歩けないような状態で、
宿の階段のアップダウンが大ゴトでしたが。

当然あちこち痛くて、腫れて、熱っぽくて、
全然眠れませんでしたが、
翌早朝、気持ちよく起床。
何せ、寝て起きれることすら幸福感を感じます。

昨夜に続き宿の温泉へ。
しかし湯の峰温泉は、
何といっても湯がべらぼうに熱い!

ゆっくり使って傷を癒したかったのですが、
日焼けや傷にしみてとても我慢できない。
昨夜に引き続き、カラスの行水で出てしまいました。

朝食をいただいて、
本当は昨日行くはずだった

つぼ湯へ

そうです。
小栗判官復活の湯。
「熊の親切」で舞台にした、
あの伝説の泉に行きました。
宿からすぐ。
ひと組づつ三十分なんで混んでると結構並ぶと聞いてましたが、
平日なのか人影一つありません。
悠々と、つぼ湯を独り占め。
こちらも同じ源泉なので、
べらぼうに熱い湯でしたが、
思いっきり差し水して、
こちらにはゆっくり入りました。
そしてついに

復活!

実に清々しい気分で、
最終日三日目は、
観光バスに乗って
熊野三山めぐり

熊野本宮大社
速玉大社
那智大社(もちろん那智の大滝)


を一日かけて一通りめぐり、
まあ正直なところ、
バスの乗り降りの時点から
かなり尋常でなくキツイという足の状態でしたが、
どこもかしこも階段階段の
神社巡りも何とか
汗だくになりながらこなし、

熊野めぐりクリア。

最後は紀伊勝浦駅から紀勢線に乗って大阪、
そして夜行バスの予定を、
余りに体きつくてキャンセルし、
新幹線最終でその日のうちに帰京しました。

画して、

「クママーク取材熊野旅行」無事?終了

この熊野三社めぐりも本当にいろいろと感慨深いものでしたが、
やはり二日目の玉置神社顛末ほどのパワーを持つエピソードはないので、
ここに至ってはもはや書くこともありません

さて、
一体何を取材しに行ったのかと言われると答えに窮するのですが、
何を見たとかどこへ行ったとかいうより、
十津川、熊野を体感したいというのが一番の目的だったので、
それは十二分に達成されました。
ともすれば必要以上な程に。

その土地に実際に立つことで、
生死往還、復活再生の森と言われる熊野が、
なぜそういうふうに歴史的に思われてきたかを感じたかったのです。

しかし、
そういうことを感じることができましたというよりは、
今回僕はもろにその森の霊力に直面しました。

本当にいろんなことを学びました。

もちろんそこには、山をなめてはいけないという教訓、反省もあります。
愚かな自分に直面した。
個人的科学的観点だけで考えるとそれに尽きるとも言えます。

しかしそれ以上に、
生きるということ、存在するということのエッジに直面し、
生きるということのゆらぎみたいなものも体験しました。
生きるということが揺らぐとそこには死というものが現れます。
そして生きるということは、対極にある死というものとの対で捉えるもの。

さらに生きるということは、自分以外の生との争いばかりではない。
むしろリカバーし合う関係性に潜む必然。
親切という行為、現象の重要な存在感。

もしかしたら生死往還の縦軸、親切不親切の横軸、
その二つの軸線が交わる世界の中にしか、
生きていくということの実感はとらえられないのかもしれません。
そして世の中は基本的にそれらの因果がめぐる世界なのに、
もしかしたら今の人間社会はそれらをかなり隠蔽しているのかもしれません。
それらが隠蔽されている世界において、
神というものの持つ意味合いは全然違うことになるのかもしれません。
そういうことで魔界は縮小しているのかもしれない。
それは生命の上下運動を失念した、
自他の距離感の消失した、
非常に無意味でシュールな世界なのかもしれない。
そんな世界では神様も迷妄でしかない。
玉置神社はそういう世界と最も遠いところにある神社でした。


今回、思ったことは、

偶然などないということです。

あの玉置神社で参拝道で出会った二人のおじいさんがいなければ、
僕はこんな文を書くほどの体験はしてなかったでしょう。
あの二人とあのタイミングで出会ったから、後のことがある。

もっと不思議なのはトロッコおじいさんの登場です。
もし僕が六道ノ辻を最初から見つけて曲がった場合、
まだ疲れてない状態で落下もしなかったとします。
すると先が崩れている登山道へまっすぐ行ったということです。
六道で迷ったことは同じくでも、谷下への崩落を回避してたとします。
それでもおじいさんと出会わずに、先の崩れた登山道を進むことになったでしょう。
先の崩れた登山道には実際に行ってないので、
そこでどういう展開になったかはわかりませんが、
最もありそうな可能性は、
玉置山まで戻る。
あるいは、
崩壊してると気づかずに強引に進もうとして大変なことになる。

六道で迷い、谷底に落ちた時間があったからこそ、
あのトロッコおじいさんに出会うのです。
少しでもタイミングがずれていればあの人には出会ってない。
つまり下山できていないわけです。

最後に乗せてくれたお兄ちゃんだってそう。

ひとつでもピースがわずかにずれれば、
何もかもが違うことになっている。
全く違う結末がありえた。


この旅の顛末の特徴はこれにつきます。

すべての因果が最初から連動している。
そしてその終点で、僕という個人が神への畏怖を感じるという場所に到着している。
これこそが日本の神というもののの実在に他ならないのだと僕は思います。


ともすれば僕が会った人は
全員神様だと考えてもおかしくありません。
そしてやはり僕は、
そもそも玉置神社に呼ばれたと傲慢にも思ってしまうのです。

そこには必然しかない。

古来自然と一体化する八百万の神々への信仰。
命の流転を説く仏教。
そして山岳と森を信奉し大峰奥駈道を駆け抜ける修験道。

これらが渾然一体となって、
玉置神社の結界は構成されています。

そこにある問は一つだけです。

必然の生とは何ぞや

さあ、この旅の手応えを三ヶ月かけて、

「クママーク」

という作品に落とし込みたいと思います。

非常識な長文、ここまで読み終えていただいてまことに、

ありがとうございました。

ここまで読んだからには、
秋のカムカムミニキーナ公演「クママーク」

絶対見に来てくださいね。



at 22:40, 松村武, -

-, -, - -

カムストック第七十談「クママーク取材旅行顛末その一」

2011年より一年ごとに

「鎮魂」
「祈り」

とテーマを持って、年二本の新作を作ってきました。
そして今年のテーマは「復活・再生」

奈良で「古事記」と深く触れて以来、
古代の説話に惹かれ通しの状態はおさまらず、
今年は「古事記」にも関連が深い、

神の森、熊野

を舞台にその「復活・再生」の物語を書こうと思いたちました。

という流れで春のサラウンドミニキーナが
小栗判官伝説を基にした

「熊の親切」

おかげさまでご好評いただきました。
九月二十一、二十二日に奈良もいち堂での公演も決まっております。

そして秋の公演は

「クママーク」

この作品を執筆するにあたり、
実はまだ訪れたことのない熊野を、
一度この目で見ておかないととずっと思っていました。
そして先日、
ナライブで奈良に訪れたついでに
思い切って取材旅行を敢行したのです。

さて、そこではいろいろなことが起こりました。
その顛末を書き記しておきます。
相変わらず長いですが、
久しぶりにツイッターだけでは書ききれない、
長文に値する経験をした気がします。
時間にしてわずか二泊三日のことなんですが…。

熊野は、
奈良県、和歌山県、三重県にわたる広大な山岳森林地帯で、
古来、神の森と称され、霊山として信仰の対象となった地域です。
「蟻の熊野詣」という言葉があるほどに、
昔はひきもきらず、人々が詣でました。
そこには三つの大きな神社があって熊野三山と呼ばれます。

熊野本宮大社
速玉大社
那智大社


です。

そこは

生死の境界の地帯

であると言われます。
「熊の親切」で描いた小栗判官の説話しかり、
一度死んだものが蘇ったり、
死の世界へ行き来できたりする物語がいくつもあります。
まさに

“復活と再生”の森。

三つの神社では多くの神様が祀られていますが、
柱は
スサノオとそして
その母イザナミです。

「古事記」において
イザナミは死後の世界、黄泉の国の住人となりました。
スサノオもまたそんな母を慕って黄泉の国へ向けて放浪し、
大国主の物語の中では
黄泉の国と同一視される
根の堅洲国の王となっていました。

この根の堅洲国こそ、熊野のことだと言われています。

また、古事記の神武東征のくだりでは、
初代帝イワレヒコは
熊野より大和へ攻め入り、大和朝廷を開いたとされます。
その道程でのエピソードが、
熊野全域に多く残されています。

さて、そんな熊野への旅。
先程も書いたようにナライブついでに行くことにしたので、
奈良から向かいます。
実は熊野地方は、全交通機関使った上で東京から一番遠い地域です。
最も速い方法は紀州南端の新宮空港まで飛行機。
そこから車なんですが、
あえて奈良から、
つまりは都の方角から入ってみます。

奈良の橿原に
大和八木という駅があります。
我が故郷大和郡山からだと三十分くらい南に近鉄で行きます。
そこから一日に三本の新宮行きの路線バスというのが出てます。
これは高速を使うのを除いて
路線バスで日本最長の路線です。
新宮まで六時間半。
山を縫う国道168号線という一本道をうねうねと行きます。

一日目。
今日の目的地は十津川温泉です。
十津川村は奈良県の南半分を占めている日本最大の村です。
ただその96%は山林です。
熊野の一部といって過言ではありません。

八木から四時間半のバスの旅。
山山山。
これでもかと山がつらなり、
一本の大きな川沿いに道が一本走っています。
そしてバス停ごとに小さな集落が現れては、
また山山山。

対岸へのしっかりとした橋があまり見当たりません。
たまにあるのは吊り橋。
これは洪水で流されないためにということで、
有名な「谷瀬の吊り橋」などはものすごい高度感と長さ。
バスがそこで休憩してくれるので、
実際に渡ってみようとしましたが、
あまりに簡素な作りと揺れに
怖くて渡り切れませんでした。
住んでる人にとっては日常の道なんですが。

それにしても山深い。
それでも道は一本続いていきます。

そして川は、まるで戦場の光景でした。
治水の戦争です。
十津川は2011年の台風で酷い被害をこうむりました。
その爪痕が今でも生々しいのです。
大規模な治水工事が行われていました。
どこもかしこ工事中で、
細い山道に大きなトラックが出入りします。
慣れてないと、対抗とのすれ違いができないほどの狭い国道。
そんな中をバスは悠々と走り抜けます。
路線バスなので、生活のために買い物帰りの人や学生が乗り降りします。
病院通いの人も多かった。
一時間くらい乗って通うしかないんですね。
平日だったからか観光らしき人間は僕ひとり。
時にはバス一人で貸切状態です。

こんなに奥地にあるのに、
いやだからこそ、
十津川は古来、日本の歴史の節目に大きく関わってきました。
それは土地的に最後の切り札であるかのような誇りと、
熊野信仰にも繋がる“再生”に彩られています。

まずは神武東征の折、
熊野の森にて初代帝イワレヒコは大きなクマにでくわし、
全員が気絶するという事態にみまわれます。
しかし高天原の天照大神がつかわした刀で窮地を脱した一行を、
三本足の八咫烏が吉野へ案内します。
八咫烏はサッカー日本代表のエンブレムですね。
道中は国栖(くず)と呼ばれる人々が一行に協力します。
この八咫烏や国栖が十津川の人々の祖先だと言われています。
(八咫烏には他にも多くの説があります)
つまり神武を大和に導いた一族であるということです。
神武ことイワレヒコがなぜこの熊野から大和に向かったかは諸説ありますが、
大阪から攻め入ろうとして地元のナガスネヒコに撃退され、
和歌山の南端まで逃げてきたか、流されてきたのです。
つまりイワレヒコは敗軍の将だった。
それが熊野の霊力と十津川人の助けで
見事復活再生を果たしたということになるわけです。

このことを十津川の人はずっと誇りとしてきました。

次に奈良時代の壬申の乱です。
大化の改新を主導した天智天皇。
兄である彼と対立し政争に敗れたのが、
大海人皇子、
後の天武天皇です。
「古事記」編纂を命じた張本人ですね。

大海人は兄から逃げて、吉野へ向かいました。
吉野というのは十津川も含めた奈良県南部一体をさします。
そして十津川人などの庇護と援助のもと、
これまた見事復活

大海人は吉野から伊賀、尾張へと向かい、
東国勢力を率いて壬申の乱で関ヶ原にて天智勢力と激突。
勝利して即位しました。

この時に十津川は租税免除とされ、
以来、明治までずっと時の政権に税を免除されていたという
驚異的な話があります。

さらにくだって平安時代。
貴族、皇族の熊野詣が最も盛んだった時期、
十津川は保元の乱に御所守護で出兵しています。

さらに鎌倉時代。
兄頼朝に疎まれた源義経が逃げ込んだのも、
ここ吉野でした。十津川までは来てませんが。
しかしこれは復活ならなかった。

室町時代。
足利尊氏に追い落とされた後醍醐天皇は吉野で南朝をひらき、
復活を期します。
十津川のすぐ北側に大塔という地域があり、
そこに御所とかがあります。
これは後醍醐天皇の皇子、護良親王が大塔宮と呼ばれたことから来てます。
これまた復活はならなかった。

義経も後醍醐帝も、熊野の森にギリギリ届いてないとも言えます。

大坂夏の陣にも十津川は出兵しています。
徳川方です。
それもあって江戸時代も租税免除は続きます。
村の人間は全員が士族とされました。

そして幕末。
このような歴史を持つ十津川人は、
尊王攘夷吹き荒れる京都へ出向き、
御所を守護します。
そして幕末最初の攘夷派の武力蜂起、
天誅組の変に十津川人は大規模に参加します。
ところが、ちょうどそのあたりから、
尊王攘夷が開国倒幕に世論が変わってくる。
天誅組の変は十津川の郷士達を巻き込んで迷走し、
時代遅れとなった過激攘夷派は十津川に潜んで復活を期すが、
無残にも散っていきます。
この時期、十津川郷士と言えば誰も知らぬものなく、
強者の代名詞でした。
坂本龍馬が暗殺されたとき、
暗殺者は「十津川郷士だ」と嘘をついたといいます。
新選組と渡り合った話もあります。

ちなみに今の十津川村のゆるキャラマスコットは
「十津川郷士くん」です。

そして明治。
ダムもない時代。
台風による大水害がこの地域を襲います。
壊滅した村の半分、二千人余りは、
十津川の土地を去り、
当時の新天地北海道に移民。
新しい十津川を建村します。
これが今の新十津川町です。
まさに地獄からの復活です。

このように歴史との関わりには事欠かない十津川村。
それは

「復活と再生」


をめぐる物語に彩られた稀有な土地です。

しかしあまりにも遠い。

都から遠いから遠津川というそうです。

遠いからこその特殊なポジションを何百年も保ち続けてきたのでしょう。

今でも遠い。
奈良の人でもなかなか行かないところなのです。

秘境というでもない。
それほど渓谷の風景とかがあるわけではない。
辺境でもない。
辺ではなくて、近畿のど真ん中の山奥にあるのです。
何と言うんでしょうか。
この孤絶した独特な雰囲気。

来ないとわからないことがあります。

温泉街って雰囲気でもないし、
何か、閉じ込められてる空気感がありました。
違う国みたいな。
架空の国みたいな。
それでいてど真ん中な余裕というか。巨大な懐というか。

しかし温泉は本当によかった。
温泉と宿しかないですが、
隔絶感が最高に気持ちいい。

バスを降りて宿についたのがもう夜。
一日目はこうして
バスの車窓を眺めながら十津川の歴史を思ううちに過ぎていきました。

そして問題の二日目を迎えます。

実は十津川には、
先ほど書いた熊野三社の奥の院とも呼ばれる

玉置神社

という知る人ぞ知る神社があります。

この神社は日本最古の神社と呼ばれ、
今でこそ古事記の神様を祀っていますが、
それよりも全然前に
神の石を祀った聖地であったと言います。

祀られている神様のうち、
古事記の中に出てくる神様で珍しいのが
クニトコタチノカミ

イザナギ、イザナミ以前の人の形をしてない宇宙混沌の時代の混沌そのものの神です。

社殿もかなり古いし、
よくは知りませんが、
パワースポットとしてはかなり強力らしいです。

そして一説には

呼ばれないと行けない神社らしく、

呼ばれてないのに行こうとしても、
何やかんやでたどり着けないというのです。


その玉置神社に参拝することが、
この旅の最大の目的でした。

なぜか?
直感です。

呼ばれたんでしょう。

しかしその日僕は、
その

玉置神社の霊力

に文字通り振り回されることになります。
それはまさに
運命そのものを弄ばれるかのような出来事の連続でした…

玉置神社は玉置山の頂にあります。
結構な山ですが、
神社の入口すぐ近くまで車道が繋がってます。
土日は十津川温泉からのバスが出るらしいのですが、
平日は出ません。

僕はタクシーで行こうと簡単に考えていました。
ところが

タクシーってものが十津川にはほぼない

という驚きの事実に直面します。

そこであらためて地図を見返すと、山は宿からもだいぶ離れています。
どうしようかといきなり途方に暮れていると、
宿の人が

親切にも

送迎で送ってくれると言ってくれました。
ありがたい!
普段はそんなことはしないそうなんですが、
僕の余りに途方に暮れる姿を見かねていただいたのでしょう。
それですっかり安心して、朝もゆっくりめに宿を出て、
車で向かってもらいました。

しかし実際参拝道は地図で見たよりも
全然温泉中心部から離れててなかなか着きません。
町のスケールが大きいんですね。
徒歩だったら一時間以上かかったでしょう。
送ってもらって本当に助かりました。

さて車は参拝登山道に入り、
うねる道の脇に滝と鳥居が見えました。
そこで車は止まり、

「皆様、ここから参られますので」

と送ってくれた方が言うので、僕は言われるままに車を降りました。
ひとしきりお礼を言い合い、やがて車はUターンして温泉に帰っていきました。

僕はそこがてっきり神社そばの駐車場だと思い込んでいました。
となると十五分ほどで本殿があるはずです。
しかし滝?滝なんてあったかな…?

そこであらためて地図を見てびっくり。
それはまさに玉置山の登山口だったのです。
そこから徒歩で神社まで登らないといけないということなのです。
すると目の前に標識が。

「玉置神社10キロ」

10キロの坂道を歩いて登るしかないのか…
これは数時間かかるぞ…
本当に

皆様ここから参られますのか?

朝八時半とはいえ、すでに灼熱の陽光が容赦なく直射してきて、
歩く前からすでに汗だくです。
しかし仕方ないので、
これはご参拝なのだ、と気持ちを新たにして僕は歩き始めました。

すると少し歩いたところに
「玉置神社登山道 4キロ」
という表示と山道らしき入口がありました。
しかし見るからに人が歩いてないような獣道が続いています。
僕はまさかこういう展開になると思ってなかったので、
スマホにダウンロードした簡易地図しか携行してませんでした。

この旅で、登山をすることなど念頭になかったのです。
そのスマホ地図は一応昭文社の山と高原地図シリーズなんですが、
実際のものよりやや詳細度に欠けるもののようで、
玉木神社付近の車道以外の登山道が書いてませんでした。
なのでさすがに警戒して、僕は10キロの車道を頑張って歩くことにしました。
(後日よく地図を見る限り、車道と登山道の区別が僕はついてなかったようです)

もしここで4キロの登山道に僕が踏みだした場合、
その日のその後の展開は大きく変わったことでしょう。
それがよく転んだか悪く転んだかは考え方です。
何を後悔し、何を反省すればいいのかは、
全くもって運命的に難しい問題ですが、
ともかくここで10キロの車道を歩くことにしたことが、

ひとつめの大きな運命の分かれ道でした。

辺りには全く人気がありませんでした。
車道とはいえ、車も全く通りません。
朝なのにすでにギラギラとした陽光と
種類のわからない鳥の囀り。
果てしなく続く木々の緑。
さわやかというには、体はすでにドロドロです。
そんな感じで歩き続けていると、
何らかの獣の激しい叫び声が聞こえました。
犬のようでいて、犬ではない。

熊?
狼?
猿?


獣は複数で何やら激しい感情に揺さぶられている状況のようです。
僕は思わず足を早めました。

当然喉が乾いてきました。
しかしこんな展開になると思ってないので、
昨日バスの乗る前に八木駅で買った、
500のお茶の飲みかけしかカバンにはありませんでした。
とにかく神社に着けば、車で行けるくらいだから
自動販売機くらいあるだろうと思い、
買い足してなかったのです。

僕はそのお茶を飲みながら歩き続けました。

小一時間くらい歩いたでしょうか。
まだまだ先は長いというのに
徐々に疲労が足に出始めてきた頃、
一台の車が後方から走ってきました。
僕はそこに人の気配を久々に感じて少しホッとして
ぼんやりとその車の来るのを見ていました。

するとその車は僕の傍で止まりました。
運転していたのはおじいさんです。
でもその人の風体はただのおじいさんではありませんでした。

ラストエンペラーみたいな丸いグラサンにシルバーのピアス。

僕は咄嗟に少し身構えました。

「乗り!」

そのおじいさんは僕に車に乗るように言いました。
そこから神社まではまだまだあって、とても歩く距離じゃないと言うのです。
瞬間、僕の胸は感謝の気持ちに満ち溢れ、
おじいさんの外見への偏見など吹き飛んで、
速攻で車に乗りこみました。
それほど疲れていたのです。

なんて親切な人だ!

おじいさんは、僕を乗せて山上の神社へと車を走らせました。

このグラサンおじいさんとの出会いから、
この日の僕の運命は予定してたものから
大きく逸れたものになっていきます。
あの登山道に踏み込んでいたなら、
このグラサンおじいさんとは出会っていなかった。
後から考えるとこのことは
とても運命的なのです。
ある意味、

出会うべくして出会った

としか思えません。

さて、グラサンおじいさんの車の助手席で雑談をしながら、
車は神社へと向かいます。
おじいさんは神社駐車場付近の食堂を経営してる人だそうです。
玉置山を登る人は普通は登山道の方を歩くと。
あの4キロの道の方です。
しかしよくよく聞くと、その登山道の始まりは全然僕が来た場所ではありません。
ではあの道は何だったのか?
車道はうねって遠回りしているので、
そこを歩いて登っては2、3時間ではすまないとの話です。
確かに神社に着くまで
僕が想像してた以上の残り距離がありました。
本当に乗せてもらって助かった。
僕が東京在住だと言うと、
何とグラサンおじいさんも東京に一時いたことがあるということでした。
僕が玉置神社に異様に興味があって来たのだと話すと
とても嬉しそうに
この神社の偉大さを話してくれました。

グラサンおじいさんは僕にこの先の予定を尋ねました。
僕は玉置神社に参ってから、
十津川温泉に戻り、
そこからバスに乗って熊野本宮方面へ移動。
本宮参拝してから湯の峰温泉まで歩いて宿泊という予定を立てていました。
しかしそのためにバスに間に合うように温泉に戻る時間を考えると、
すでに可能かどうか微妙な時間に差し掛かっていました。
さすがにおじいさんに戻りも送ってもらうわけにはいかないですから、
徒歩でこの道を下って戻るとして、
さらに宿の人に送ってもらった道もすべて歩くと考えると、
4時間くらいはかかりそうです。

そんな話をしていると、
グラサンおじいさんは言いました。

せやったら大峰奥駈道を歩いて本宮へ行けばええやんか

大峰奥駈道…
それは奈良出身者、そして登山愛好家として、
死ぬまでに一度は避けては通れないと思っていた道です。
吉野蔵王から熊野まで
全部を歩き通すと一週間以上かかります。
白装束の修験者達が修行した神聖なる道…

グラサンおじいさん曰く、
大峰奥駈道で玉置神社から熊野本宮大社までは
70、80才のおばあさんでも7、8時間
僕のような壮年男子であれば、五時間くらいだろうと。
つまり四時間かけて十津川に戻るくらいなら、
その方がいいに決まってると。

天気もいいし、まだ朝も早い(九時半くらい)
ゆっくりいっても十分日暮れに間に合う。
せっかく車に乗せてもらって時間短縮できたのだから、
その時間を生かしなさいというのです。

確かに単純に今車で走っている道を歩いて戻るというのは余り気が進まないし、
何せ憧れの大峰奥駈道です。
その一部にせよ、こんな風に歩ける機会がそう何度も今後訪れるわけではないでしょう。

ただ現状、登山の装備ではないんだけどな…という不安もありました。
僕の心は揺らいでおりました。

そんな中、車は車道の終点、すなわち玉置神社脇の駐車場に着きました。

そこにはグラサンおじいさんの店があり、
違う車で来ている違うおじいさんがおりました。
このおじいさんは、グラサンおじいさんの知り合いで、
どうやら、参道の地蔵様やらにお花を毎日供えたりする方みたいでした。
二人共地元の人のようです。
お花おじいさんによれば、今日は参拝客が誰もいないということでした。

車を止めた脇に細い山道があります。
グラサンおじいさんはそこから登っていけば、全部参れると言いました。
全部参った末に、またここへ戻ってくると。
この全部参れるの意味が僕にはあまりよくわからなかったのですが、
言われるままにその道を歩いていくことにしました。
丁重にグラサンおじいさんに礼を言い、
全部参って、戻ってきたら彼の食堂で何か昼飯を食べようと心に決めていました。

さて、一人山道を登っていきますと、
思った以上に距離があってなかなか神社に着きません。
するとおもむろに小高いピークに出ました。
そこが玉置山頂上でした。
頂上から下ってさらに奥へ向かうと、
何やらいかにも清らかな木の鳥居が続々と出現し、
そこをくぐっていく中で、
杉やら玉石などを祀った祠が、次々と道すがら現れました。
このあたりが日本最古と言われる原始信仰の名残でしょうか。
続いて稲荷の社などを通過し、
とうとう玉置神社本殿に到着しました。
それはそれは見事な社で、圧巻の建築。
とにかく建物は古くて美しい。
そして何より神秘的な雰囲気。
ここが最大のパワースポットと言われる所以を肌で感じます。
樹齢何千年の信じられない太さの巨杉が境内を囲みます。
これぞ熊野の奥の院。
日本の神々信仰の最初で最後の地という風情が堪らない。
他に類を見ない神社です。
もし本当にここに

呼ばれた

のだとしたら、これは大変なことです。
十津川という土地自体が、ある決意をもって入らねば
滅多に行き着かない奥の奥です。
思い返せばそれを昨日のバスの旅で実感していました。
その十津川の中でも、
いろいろと紆余曲折あって、
ようやくたどり着いた奥の奥です。

聖地

この言葉がこれほどしっくりとくる場所が他にあるでしょうか。

にわかに立ち去り難く、しばし僕は無人の境内を何度も行ったり来たりしていました。
この後どうするかはあまり考えず、
とにかくこの地を出来うる限り堪能することを優先しようと思い、
時間を気にせずにうろちょろしていました。

すると無人の境内で声をかけてきた人がいます。
振り向くとそれは、
さっきいたお花おじいさんではありませんか。
お花おじいさんは各祠にお花を供えながら僕の後をついてきていました。
すごい神社ですねぇなんて話が雑談になり、
お花おじいさんもまたグラサンおじいさんと同じく、
東京にいたことがあるということがわかりました。
お花おじいさんはグラサンおじいさんに僕のことを多少聞いていたようで、
今から熊野本宮へ行くんやろ?と聞いてきました。
そしてグラサンおじいさんと同じく、
だったら大峰奥駈道を歩くことを強く僕にすすめ、
グラサンおじいさんよりも具体的に、
道中がどういう坂道で、
どの辺りがキツくてどこが楽でとか、
奥駈道の様子を事細かに教えてくれました。

何とも親切なことに。

そして結論としてグラサンおじいさんと同じく、
まだまだ朝早いし、(十時半)
君なら若いから五時間もかからないだろうとなりました。

それだけ言われて
それでも行きませんという方が意志が必要だったでしょう。
僕は大峰奥駈道を行く決意をし、
そうお花おじいさんに告げました。
するとお花おじいさんは、
だったらさっきのグラサンおじいさんの店がある駐車場まで戻るのは逆方向になる。
このまま神社の先に行きなさいと教えてくれました。

いやしかし…
乗せてくれたグラサンおじいさんへのお礼として
彼のお店で昼飯でもと思っていたわけだし…
それになくなりかけてたお茶に関して
水分はおじいさんの店の自販機で二、三本ペットボトル買えばいい思っていたし…

ここは実際少し迷ったんです。
駐車場まで戻ろうか戻るまいか。
そしてこれもまた大きな運命の分岐点だったのです。

しかし畳み掛けてくるお花おじいさんの言葉に押され、
僕はそのまま奥駈道へ踏み出してしまいました。

そして神社を出る前に、
残りのお茶を飲み干し、その空の500のペットボトルに、
手洗いの水を満水にしてカバンに詰め込みました。
これは今から思えば、僕の最大の迂闊です。
山をなめんのか!と罵倒されても返す言葉がありません。
たとえ五時間の楽な山行であれ、
灼熱の水場がない道で、500の水では足りるわけがない。
まあ正直、水場があるかどうかすら
ちゃんと確認せぬまま踏み出していたのです。
そして大峰奥駈道は何が大変かって、
水場が全然ないってことなんですね。

さてそんなこんなで水をくんでいる間に
お花おじいさんはどこかへ消えてしまいました。

僕は気にせずに、
この聖なる神社に別れを告げ、
いよいよ大峰奥駈道に一歩踏み出しました。
時間にして10時40分頃です。

流されてる。凄い流されてる。よし、ならばどこまでも流されよう

そんな気持ちでした。
この流された果てに何が待っているのか。
私をかように流す水はどこからどこへ流れるのか。

果て…果てと言えば
十津川の村を隔てて見える向こうの山脈の名は
果無山脈(はてなしさんみゃく)です。
地上の果ての森の果ての向こうに見える果のない山脈。
ロードオブザリングのような世界。

まさにその世界の果てに踏み込んでしまったのですどうやら。

鳥居をくぐって奥駈道に出た途端、
新たな人にすれ違いました。
中年の男性で、一体そこで何をしていたのかわかりません。
参拝客なら逆方向から現れるはずで、
そこですれ違うということは、
奥駈道を逆にこちらへ向かって歩いてきたということになります。

その人はどうやら
お花おじいさんと会ったみたいです。
そして僕のことを聞いたらしい。

今から奥駈道行くんだって?大丈夫?15キロって書いてあるよ

奥駈道を歩いてきたと思った人からそんな風に呆れた感じで言われた僕は、
やや不安になりましたが、
愛想笑いして、その人をやり過ごし、先へ進みました。
しかし考えてみると、
じゃあのあの人はどこから来たんだ?
奥駈道から現れたじゃないか?
そしてお花おじいさんはどこへ消えたんだ?
その人とすれ違ったってことは、
あの人も奥駈道へ行ったのか?
つまり、返す返すも、あの人ともう少し話すべきだったのです。

あの謎の中年男性は何らかのストッパーの役割を担う存在だったのかもしれない。


さあ、
しかしすでに孤独な山行は始まりました。

始まりはしばし平和でした。
あらためてスマフォで地形図を確認。
道は綺麗に整備されていて迷いようもなく、
両おじいいさんが言った通り緩い下りが続きます。
地図に書かれたコースタイムなども頭に入れて進みましたが、
だいたい二割くらいまいて進んでいたので、
この調子だと五時間で行けるかもと思い小走りで進んでいました。

しかし徐々に道は悪くなっていきます。
何分かに一回道を見失います。
そして結構険しい登り道が現れ始めました。
時間は午後にさしかかり、
気温も上がってきます。

最初のピーク、大森山の頂上に着く頃までは、
まだ大丈夫でした。
その大森山の急な下り道くらいから、
急激に体力が厳しくなってきます。(午後一時)

問題はまず靴です。
登山靴じゃなくて普通にスニーカーでした。
それでも行けるような道を想像していたのです。
まあ、なめていたということです。
しかし蓋を開けてみると
それは本格登山、しかも上級編といった道具合でした。
特に下りのちょっと泥化した急坂で、
滑って滑って危なっかしくてなかなか踏ん張りがきかず、
慎重に進んでかなりタイムと体力のロスをしてしまう。
さらに山道歩行の圧にそもそも耐えられる構造ではないスニーカーでは、
最も致命的な靴擦れを回避できません。
足裏には早くも水膨れが出来始めます。

そして水問題。
それは猛暑の一日でした。
どんどんと汗で水分が失われていきます。
水分をとらないと熱中症という危険が出てきます。
しかしわずか500しかない水は計画的に飲まないとすぐに底をつく。
日暮れまでの時間を考えて、
一回の飲みに口一杯含む量と厳しく決めて少しづつ慎重に飲んでいましたが、
そのせいで逆に
やがて熱中症的な症状が出始めて、
頭が朦朧としてきました。

しかもよく考えると7時半の朝飯以来何も食べてないのです。
空腹もあいまってどんどん力が失われていく。(午後二時)
普通の登山ならこういう時のために、
いろいろなサプリメントなどを持ち歩くもんですが、
一切何も用意してきていない。

この靴と水、食料の問題がどんどんと体にのしかかってきて、
脳も冷静な判断ができなくなってきます。

大森山下りから、次の五大尊岳上りにかけて、
すでにバテきった状態の僕は、
少し進んではへたりこんで休憩を繰り返し、
地図上のコースタイムを全然クリアできなくなっていました。
時間にして午後三時近く。
ここで僕は日暮れ前にゴールまで到着不可能と判断、
熊野本宮大社まで歩くことをあきらめ、
五大尊岳を下ったところにある

六道ノ辻

という恐ろしい名前のところで側道に逸れ、
上切原というところに下山、
橋を渡って道の駅奥熊野古道本宮というところからバスでその先湯の峰へ向かう
というルートに切り替えました。
このペースで行くと午後5時には下山できそうです。
そう決めた瞬間、道の駅で自動販売機のジュースを買ってがぶ飲みする自分の姿が浮かび、

犬のように涎が出て、その涎を飲み込みました。

その幻を餌に自分の体を奮い立たせ、
六道ノ辻を目指しました。

五大尊岳からその辻までは地図で見る限り下り道でした。
ジュースの幻効果でさっきのバテた状態よりは元気になった僕は、
さほどコースタイムに劣るようなペースで進んでいたわけではありませんでした。

しかし行けども行けども六道ノ辻に出ないのです。
遅くとも三時半には着くはずなのに、
全然到着しません。

脇にそれる道はいくつか現れるのですが、
だいたいどこかへ通じる道なら、
道しるべに矢印と行き先の地名が書いてあるものです。
行き先がなくともせめて
「六道ノ辻」の標識はあるはずです。
何せ地図上でも大きく書かれている。
そういうものが何もない脇道は逆に危険で、
地図にものってない迷い道の可能性があります。
だから道しるべを今か今かと探し続けているのですが、
全然見当たらない。
しかも六道ノ辻には
「金剛多和の宿跡」
なるものがあって地図上では目印となっているはずでした。

ところが道はやがて急な登り道が続きだし、
さすがにジュースの幻効果も薄れて、
いよいよ足が動かなくなってきます。
この速さで進んでもまだ辻まで出ないなら、
辻より先もコースタイムの三倍かかる。
そうなったら日暮れじゃないかと焦り始めた午後四時頃、
僕はとある山頂に着いていました。
そこは六道ノ辻を越えたその先の山、
大黒天神岳の山頂でした。

やはり六道ノ辻を見落としてたのです。

登山歴三十年近い男の大きなミスでした。
それだけ頭が働いてなかったということでしょう。

その山頂でへたりこんで僕は考えました。
この先進むか、戻って辻を探すか。
残りの体力ももうないような状態で、
やはりこれからまだアップダウンが激しい本宮までの道を
日暮れまでの二時間程でゆくのは無理と判断。
思い切って戻ることに決めました。
戻って六道ノ辻さえ見つければ、
二時間で下山できるはず、と。

ちなみにスマホで六道ノ辻の写真を検索したけど見当たりませんでした。

残り僅かな水を残り一口分まで飲み、
決めたからには速攻!
とばかり、僕は余力を振り絞って
元来た道を文字通り駆け下りました。
恐らく何の標識もなかったので見過ごした脇道のどれかが、
六道ノ辻である。
その目印を見落としただけなら、
今度は冷静に探せばわかるはず、と。

三十分くらい走り、もう走れないと思った限界で、
一つめの脇道まで戻りました。
そこにはやはり何の標識もなく、
かなり迷ったんですが、
やはりこれではないと判断し、
ちょっともうフラフラだったんですが、
さらに走り、もう一つの脇道のところに戻りました。

するとどうでしょう。
そこには明らかに

「金剛多和の宿跡」

なる立札がある祠があるではないですか。
そしてそれ行きに見た記憶あるじゃないですか。
そうそれこそが

六道ノ辻

だったのです。
そして水不足と疲労で朦朧とそこを通り過ぎた自分は、
その祠を完全に認識しながら、
それが目印だと気づかずに通り過ぎていたのです。
何という愚かな俺!
時間は午後四時半…ようやく脇道下山道に入る。麓までの標準コースタイム一時間十分。

ちなみに六道とは
すべての人間が,死ねばその生の業に従って輪廻転生するという6種の世界。すなわち天道,人間道,修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道

ここまでの顛末、
そしてその後の顛末を考える上で
この曲がり角が

六道ノ辻

という名であったことに慄きます。

今から振り返って何がよかったかは一概にわかりませんが、
物理的に考えると、
あの大黒天神岳で引き返さずに、
そのまま進んで本宮まで行った方が、
結果的には短時間で到着し、
しかも何事もなく、
いやあ、きつかったねぇ
ってことでこの奥駈道顛末は平和裏に終わっていたことでしょう。

しかしなぜか僕は六道ノ辻へ戻った。
そしてそこから大変な体験をする。
まさに輪廻転生のごとく、
地獄極楽を何度もめぐるかのような変転を。
この辺りのことは、振り返ると何かに憑かれていたようにも思えるのです。
ただ、それは決して悪い何かでありません。
確実に。
結果的に。

さて、六道ノ辻を曲がって、
上切原というところへ向かう下山道を行きます。
これがやけに穏やかで緩やかな下り道が続く。
ところが問題は、
この道が、余り人が通ってない道だということでした。
奥駈道全体が普通の登山道に比べると人通りが少ない道で、
そういう道は、
例えば
枯葉が降り積もってどこが道かわからなくなっているとか、
踏み固められずに地盤が柔らかくなっているとか、
道の目印がなくなっているとか
そういう感じで、目に見えない危険をはらむのですが、
この下りの脇道自体が、
かなりの人通りの少なさを露呈している道で、
穏やかな道ではあるんだけど、
谷側に崩れ落ちた斜面を縫う道の端っこがわからないので、
一歩踏み間違うと柔らかい土壌を踏んで足が谷底へ落ちてしまう。
そういうところでまた神経をすり減らす道なわけです。

先ほど辻までの戻りに猛ダッシュをかけた体は、
限界信号で、そこへすり減らす神経ももはやないのです。
何度も斜面で滑り落ちそうになりながら、
ギリギリのところで踏ん張り、
何とかいいペースで進んで行きました。

するとある斜面で、
道しるべが斜面下の木に結びつけてあるのです。

山道での道しるべは木や石に結んである派手な色の紐です。
山道というのはうねうねと縫って進みますから、
直感的に、え?と思う方向に急に曲がっていたりしがちです。
それをただ直感的に進んでいくと道なき道に至り、大変危険なことになります。
ですから、道しるべを信じて見失わないことはとても大事。

その時見つけた道しるべは
穏やかな道が続いていくように見えている斜面を越えた先ではなく、
斜面をやや落ちたところに生えた木に結び付けられており、
よくよく見るとその先、つまりさらに斜面の下方にも
赤い道しるべをつけた木が数本見える。

これは一見まっすぐ行くのが正しいように見えるが、
まっすぐ行く道には危険があって、
ここで斜面下へ下る道が正しい道なんだと僕は経験上判断しました。
現にそういうパターンの経験は何度もありましたから。
しかし見るからに斜面下にはなぎ倒されたような木が積み重なっていて、
道というには?がぬぐえない。
でもそのちょっと先、つまりかなりの谷底まで斜面を降りたところに、
道の続きがあるように見えなくもない。
それにこの赤い紐は道しるべ以外の何者でもないはず。
わざわざここで何本もの木に赤が見えるようになっているということは、
いかにもここで曲がれということではないか。
まっすぐ行っていいなら、
こんなところに道しるべはいらないはず。

とにかく僕は斜面下の道の有無から確かめてみようと思いました。

この時の判断は朦朧としてなかった自信があります。
なぜならこの少し前にリュックの底に、
ずっと昔に芝居の稽古のために買った(稽古用のリュックでした)
ゲル状のアミノバイタルの余りが一つ入っていることを思い出したからです。
僕はその最後の希望とも言うべきバイタルをこの斜面を下るに際して飲むことにしました。
その斜面下へのルートが正しかったとしても、
それは相当体力を消耗する急下りが続くということを意味していたからです。
このアミノバイタルの力はすごかったです。
信じられないくらいに気力が復活しました。
僕はその復活した気力体力でもって、
斜面したの赤い道しるべのついた木に向かって急坂を下り始めました。

ところがその第一歩目から、斜面は大きく崩れ、
まるで

蟻地獄

のように地面が谷底へ流れていき、
僕の体もまたずるずると下へ落ちていきます。

それでも道しるべの木につかまり、
さらにもう一つ下の道しるべの木に向かおうとします。

するとさらに柔らかい地面は大きく崩れ落ちていきます。
余りに地盤が不安定なので、
そこら中に生えてる木につかまったりするのですが、
これがほとんどが倒れているだけで、
生えてないことがわかってきます。

何と、生えてるのは数本で、ほとんどは倒れているだけ。
どこをつかんでも崩落が止まらない状態になってきて、
いよいよ体のストップが全く効かない状態で、
僕の体はいいようにゆっくりと落ちていく。
その体中に落ちている木の枝がまとわりついて
むき出しの腕や足を傷つけていきます。

そんな状態までになってもまだ僕は、
その下に下山道の続きがあると信じていましたが、
あるところまで落ちきって、
そこに重なりあった木を抜けて下にも進めない状態になってはじめて、
これが要するに何らかのものが崩落した現場だと気づきました。
そしてようやく、絶対にこれは道の続きではないとわかりました。

やばい。

上を見ると元いた場所からは相当下まで落ちています。
下には絶対に進めないし、進んでもさらなるドツボなのは明らかです。
しかし多くの木切れに囲まれた状態になっていて、
もはや身動きすら自由に取れない。
上に登ろうと試みれば、手をかけるものすべてが崩落してさらに体は落ちていく。
もちろん体力はすでに限界を越えています。
無理な態勢で落ちてきたせいで、いろんな場所も怪我しているようで足が痛い。
時間は午後五時を過ぎている。
もちろん朝からこの山域には誰もいない。

遭難…

その言葉が一瞬よぎりました。
一瞬よぎったっていうか、
現に明らかな遭難でした。

登山歴三十年近くにして、初めての遭難でした。

   つづく


at 01:24, 松村武, -

-, -, - -

カムストック第六十九談 「脱皮」

あけましておめでとうございます。


うっかりというか、何といいますか、
このブログの更新は昨年の元旦以来のこととなりました。
多忙と、あとツイッターのせいでしょうか。
ツイッターにいろいろ日々の徒然を呟くことで
長文コラムを書く意欲が俄然失われていました。

実は奈良ではご存知の方もおられると思いますが、
奈良新聞にて

「赤い扉の向こう側」

というコラムを隔週で連載させていただいてます。
もう二年になります。
これまた以前だったら、
このブログで書くような内容を書いておりまして、
それもまたこちらのブログが滞りがちな一因かもしれません。

今年はもう少しブログも書いていこうとは思っています。
今の時点では。

しかし一年というものは本当に長いもので
昨年の元旦のことなんて遥か大昔。
昨年一年間に自分に起こったことを
元旦の自分は全く見通していません。
一年の計は元旦にあり、と言いますが、
僕の場合
もう少し短いスパンで計をたてていくことがまだ必要なようです。
まだまだ青いということの証です。

さて昨年もいろいろと
まさに極彩の一年とも言えるほどに
様々な色合いの舞台に数多く関わることができました。

せっかくなのでここで振り返って行きたいと思います。

まず新年は

「URASUJI 仇花」

あれ、去年か!と驚いてしまうほど、
かなり前のように思えます。
リビングレジェンドと言っていい
木の実ナナさんとご一緒できたのが
最大の思い出です。

ナナさん演じるお菊は、
高杉晋作率いる奇兵隊の唯一の実在の女隊士です。
劇中、明治新政府の銃砲を浴びて壮絶な最期を遂げますが
実はこれは、ナナさんが
舞台人生で初めて演じる死ぬシーンだったのです。

なのでそのシーンについては台本段階から
いろいろと試行錯誤がありました。
死なないという選択肢をとるバージョンも考えました。
しかし稽古の中で
ナナさん本人がそのシーンを演じることを決めてくださいました。
そしてまさに死ぬ気で演じてくれました。

すべてのことを全身全霊で取り組むがゆえに
稽古場のナナさんは、いつも一人で歩けぬ程にフラフラです。
そこまでやるのかという、
そこまでやらなければいけないのかという、
その姿にスターの本質を垣間見て、
そして当然スターならざる己の怠惰を恥じました。

一緒に舞台を作れて光栄でした。

URASUJIは四作目で初の本多劇場でしたが、
ナナさんのおかげで
本多が逆に小さく思えました。

他にも中山っちが出てくれました。
打ち上げでURASUJIファミリー(劇団っていうよりファミリーって感じなのです)
の一員に混じれて、本当に嬉しいと言ってくれて
深沢プロデューサーは泣きそうになったそうですが
僕も同じ想いでした。

中山っちの役は最終的に裏筋の仕事人ですし、
物語上、死んでません。
いずれどこかで
また助っ人として登場するかもしれません。
させたいですね。必ずいつか。

URASUJIが終わった二月からは
毎週末のように、出雲に飛行機で通いました。
そうです。

「雲南市民劇・異伝ヤマタノオロチ」

本番は三月のたった一日だけでした。
やはりこれは
出雲の雲南市という、
個人的には縁もゆかりもなかった土地に
多くの仲間ができたということの感動に尽きます。
恐らくこんな体験は求めてもなかなかできるものではないでしょう。
非常に幸運だったと思います。

山陰各地から集った熱い演劇青年達、
パワフルな生活力に溢れたオジサン、オバサン達。
そしてそれを束ねる高校演劇界の寵児、亀尾先生。
それを無私に支えるチェリヴァホールの皆さん、
町の美しさに誇りを持つ木次町の皆さん。

ここで暮らしたいとさえ思いました。

それほどに楽しい日々でした。
木次のおくい食堂でしか飲めない酒
「おろちごぼぢ」(やまたのおろちのよだれ)
を何杯飲んだことか。

ヤマタノオロチ伝説の郷を歩き回り、
古事記出雲神話を生々しく体感しました。

「砂の器」ゆかりの
老舗旅館にずっと泊まり。
障子越しに見える雪景色をぼんやりと眺めながら
セリフを覚えました。

本番はあっと言う間でしたが
おもしろくてしかたない時間でした。
とにかくいい思い出しかない。
市民劇というものに関しての考え方も変わったし
演劇そのものに対する見方も少し変わった気がします。

あれ以来、出雲には行けてません。
今年は絶対行こうと思ってます。

さてこの出雲通いのあたりの時期に
故郷の映画

「茜色の約束」

がついに郡山で公開されました。
金魚養殖業のオヤジを演じさせてもらったこの映画。
撮影もほぼすべて地元大和郡山で行われ、
出てくるシーンがすべて故郷の光景です。
試写は東京で見たんですが、
あらためて地元の映画館で
公開初日のこの映画を見て
本当に綺麗な土地だなあと思いました。

特に冒頭、茜色の夕空から始まり、
その色が泳ぐ金魚の色に重ね合わされていくのですが
金魚池のバックに広がるその夕焼けを見たとたん
説明不能な涙が出ました。
幼い日にしみついた景色とは、
かくも人の精神の核心に潜み続けるものなのだと
あらためて思いました。
そのあと、自分が出てきてギョッとしましたが。
あれは台本上冒頭のシーンではなかったので不意をつかれました。

残念ながら全国公開はならなかったのですが
地元の宝のような映像ですので
郡山でいつまででも見続けてもらえるようになればいいなと思います。

出雲、奈良往還の日々を経てやがて春。
ようやく東京に腰を据えて
次に取り組んだのが

「えびすしげなり」

カムカムが本公演とは別にやるシリーズ、
サラウンドミニキーナの一作です。
サラウンドというからにはこの舞台は変則の囲み。
囲みの舞台は稽古場での稽古が大変です。
そのほかの点でも、
このシリーズは実験していくことに主眼を置きます。
あらゆる点で雲を掴むような稽古場でしたが
創造の気で満ち溢れていました。

今年のテーマは「ひるこ」とさだめて
まずはその「ひるこ」が海から帰ってきて
「えびす様」の起源になったという部分から着想した奇譚。

何に向かって芝居をするのか
というところから、考えを固定化させないようにしようということで、
普通は客に向かって芝居はするものですが、
例えば神社の神楽のようなものは
演劇ではあるだろうが、
客に向かって芝居してるわけではない。
神に向かって芝居をしている。

そういう風に考えたものが
見世物になるだろうか。
でも神楽は十分見世物になる。
じゃあそんな感じで我々が取り組んだ場合、
どのような表現的な可能性がでてくるか。

てなわけで「えびすしげなり」は
「奉納」というキーワードで作った極めて珍しい作品です。

例えば作品中に祭りのような動きが多く出てきますが
ああいう際に
絶対カウントをとらない。
音楽に合わせない。
きっかけを作らない。
とにかく
気をひとつにする。
ということで動きを一致させる。
目的はその気の合わせの実現なのである。
というようなことをやっていました。

ある種、高度なことに挑戦したわけですが、
ある程度の成果はあった気がします。

お客様に料金をいただいてるのだから
そのお金のぶんだけ、お客様に対して
よいパフォーマンスをするという
当世、当たり前の考え方。

僕はそれは正しいと思います。
ただ正しいと僕が思うだけであって
それは定義として“正しい。”わけではない。

そして大事なことは
たとえ正しかろうが、
絶対にそれだけではないってこと。
それはいっぱいあるうちのごく一部です。
表現はそれだけのものにとどまる微小な現象ではないと思います。
人は何故、表現するのか。
軽々には答えられぬ永遠の課題です。

「えびすしげなり」を終えて
六月は

「LITTLE SHOP OF HORRORS」

二年ぶりの再演です。
シーモアとオードリー以外は前回の素晴らしきメンツが集いました。
ここでもリビングレジェンド、尾藤イサオさんと再び!
新しい二人も素敵でした。

あらためて
僕はこの作品が大好きだと思いました。
こういう作品が古典として受け継がれているところに
アメリカの底力みたいなものを感じます。

そう、これもう結構な古典ミュージカルなんですよ。
信じられない。
全く色あせない。

今回はばっちり世相にリンクした内容に思えました。
狙ったかのように。

突き詰めれば突き詰めるほど
底知れぬほど深いんですね。この作品は。
マイノリティの絶望と怨念が不穏に塗りこめられている。
一周回って今の日本の田舎町でものすごく受け入れられそうな気がします。
でもこの作品の登場人物たちにリンクしやすい人たちは
たぶん都市の劇場で高額のミュージカルなんてほとんど見ない。

だからこの作品を本多の規模でお手軽な値段でやる意味は大きい。
そのままのお手軽さと猥雑さで地方回りをもっとしたかった。

今度やるときは是非。
と、まだまだ僕はやる気満々です。これに関しては。
この作品の舞台スキッドロウを現代日本の町に置き換えたバージョンもやってみたいな。
権利関係許されるなら。
福島県の街とかにして。

七月
中日劇場で初めての演出です。

「コロッケ特別公演 殿様地獄泥棒パラダイス」

商業演劇は本当に久しぶりでした。
いろいろと勝手が違いますから、昔やった時は相当苦労しました。

まず稽古期間が短い。
出てる人が大物実力者ばかりだから、
稽古なんて最低限でいいという考え方が基本です。

でもこれは実際そうなので
文句もありません。
稽古しないでも大概のことはできるんです。皆さん。

今回はそれはそれはもう
まるで魑魅魍魎(最大の賛辞です)のごとく
リビングレジェンドの湧き出ずる群舞でした。

コロッケさんは言うに及ばす、
左とん平師匠、佐藤B作さん、曽我廼家文童さん…

何か、トランプの手札が絵札ばっかりな感じでした。
圧倒され、緊張しっぱなしでしたが、
これほどに貴重な経験はありませんでした。
商業演劇は、
ある種独特な価値観を持った独立国家みたいな感じです。
若い頃は反感というか別世界感がありましたが、
今ではそこに長い年月をかけて息づく演劇観の伝統みたいなものを
しっかりと学んでいかなければいけないと思っています。
特に、人から人で受け継がれる喜劇の歴史の厚み。
浅草喜劇や松竹新喜劇。
ここにしかない演劇の極意もまた多く存在するのです。

これからも機会あれば
この世界に果敢にチャレンジしていきたいと思っています。

八月は

「叔母との旅」

再演でした。
シスカンパニーの社長が生涯最初で最後の再演として上演を決意した作品です。
二年前と全く同じメンツで、全く同じ演出だというのにいつも満員御礼でした。
ありがたいことです。

初演時、地図のない荒野をゆくような状態だったので、
稽古場は喧々諤々。
議論百出の中、一日に一ページしか進まないといったような稽古の日々でした。
なので毎日がシビア極まりない戦いであり、
楽しさや充実感を味わう余裕も全くなかったのですが、
今回はあらためて、
当代トップレベルの俳優陣を演出できるという幸せを噛み締めました。
そして何より初演は、
こんなやり方でお客さんに受け入れられるだろうかという不安を
誰もがどこかで持ちながらの稽古だったのですが、
一度賞までいただくほどに受け入れられたという事実があって、
始めから、深い信頼感の中で淡々と稽古は進み、
無駄なく、
穏やかに、
そのまま本番は、
初演より一層、確実で、揺るぎないステージだったと思ってます。

この「叔母との旅」で試行錯誤した様々な演劇的方法は、
これからの僕の演出における様々な局面で役に立っていくことでしょう。
プロデューサーが頑なにこれ以上の叔母の再演は絶対ないというので、
こういう手法というか、雰囲気は
僕が他の作品でどんどん使っていこうと決めました。
現にこのあと、
「ひーるべる」「詭弁・走れメロス」
において、
この「叔母との旅」で発見した様々な手法を応用しています。

それにしても
もう一回、
いや、もはや毎年やっていきたい作品なんですがね。
青山円形劇場のレギュラーメニューなんかにして。
円形劇場の無形文化遺産として。
ちょっと大げさですが、
そんな話で円形なくなる話を吹き飛ばしたいだけです。

書き疲れてきました。
しかしこの一年はまだまだいろいろとあるのです。

「叔母との旅」を終えて八月下旬より
長期奈良入りが始まります。
九月九日の

「大和郡山市民劇・歌劇ふることぶみ」

の最終仕上げに向けてです。
奈良県大和郡山市は我が故郷。
その稗田村にある賈太神社は
古事記暗誦の人、稗田阿礼を祀る神社です。
2012年は古事記が編纂されて1300年の節目。
それを記念して郡山ではいくつもの行事が組まれました。
この節目の年に向けて
市では市民劇団結成による古事記上演を企画し、
3年前から劇団「古事語り部座」を立ち上げました。

カムカムは十年、やまと郡山城ホールで上演を続け、
そして僕は地元出身な上に
父方の松村家がその稗田町、
賈太神社のとなりといっていいような位置にあります。
昔から賈太神社は通学路の途中の遊び場で、
受験祈願にも通ったし、
何かと大人になるまで神社といえば
賈太神社でした。

そんな縁もあって
三年前に「古事語り部座」の指導と
その集大成として2012年に上演される
「歌劇ふることぶみ」(古事記を音読みしないと“ふることぶみ”と読む)
の作演出を任されました。

その三年越しの本番が九月にあったのです。

それはそれは
ポジティブなエネルギーに満ちあふれた、
大変素晴らしい1ステージとなりました。
そして大変面白い古事記の物語を郡山の皆さんに知らしめることができました。

一人もプロはおりません。
ほとんどが演劇初体験のおばちゃん達、そしておばあちゃん達。
そして子供達。男少々。

3年という月日は気の長い奈良の人にとっても
こうして一日に凝縮してしまうにはあまりに長い日々でした。

途中いろんなことがありました。

しかしこの一瞬のために彼らは日々を生きた。
そして見たこともないほどに舞台の上で光った。

何とまぶしかったことか。
それは演劇に携わる者の見本だった。

頭が下がりました。
神様を演じるみんなが、本当に神様に見えた瞬間がありました。

この3年で一番学んだ人は明らかに僕です。

自分が演劇をやる意味、
演劇の持つ力。
演劇の持つ意味。
すべてについて自分の凝り固まった精神を粉砕し、
自由をくれた。

当日見に来た劇団員たちは大きくショックを受けていました。
それくらいに貴重な、演劇の原石のような舞台でした。

なかなか越えられぬ輝きを持った、たった1ステージでした。

音楽のハジメニキヨシさんも素晴らしかった。
僕は語り部として出演していましたが、
サキタさんらとまがりなりにもセッションできたことは
非常に光栄なことでした。

しかし
あの静かに響き入る、のこぎりの音色の何と清々しく、神々しかったことか。

そして
その日は
「歌劇ふることぶみ」を軸にした
「古事記ざんまい」というフェスティバルの一日でした。

そこに亀尾先生率いる、あの雲南のみんなが来てくれたんです。
「異伝ヤマタノオロチ」を引っさげて。
僕は自分の出てない「異伝ヤマタノオロチ」を
自分の故郷の街のホールで客として見ました。
舞台上で皆に再会しました。
芝居はすごく進化していました。
特にコロス的役割を担う、一番経験のない人達の
役者としてのオーラの上がりっぷりに感動しました。

夜は雲南、語り部座合同で打ち上げ。
何度も秘かに声を詰まらせながら
みんなといつまでも酒を飲みました。

何かあの日のことは
遺伝子に直に刻まれたような、
そんな気がします。


それを終えて二週間後には毎年恒例のナライブです。
奈良が続きます。
ナライブも去年で三年目。
草芝居も徐々に根付き、
草芝居リーグ自体は、
ほとんど僕が関与しなくても進行していきました。
各作品も語り部座があったせいで
以前ほどには稽古段階で見れなかったけど
なかなかにいいレベル。
何より全く演劇について何にも知らない人がやってるにしては
ほっといてもある程度の作品ができてくるということがすごいことです。
作品へのこだわりや意地も生まれ、
チャンピオンベルトを取るということに関しての葛藤は
よりドラマチックになってきました。
みんな優勝したいんです。
そう思ってくれるようになったことがうれしいです。
作品作りも、以前よりもめるけど、
それだけ人任せにならない証です。
だからこそ本番が愛おしい。
草芝居は、胸を張って第二段階へ来たと言えます。

そのナライブ招待作品として
その拠点、もいち堂にて

「えびすしげなり・奈良版」

を上演しました。
春にやったのとは空間が全然違います。
そして主演が中村哲人君から吉田晋一に変わってそこでも雰囲気が変わりました。
もいち堂は天井にバトンがないので
照明はすべてサイドスポット。
舞台に高みはなく、客席は周りに置いたパイプ椅子のみです。
この状態でお送りした「えびす」
特に関西人にとっては「えびす様」はおなじみの「えべっさん」です。
奈良はもちろん神仏の郷。

結果、お客さんの雰囲気も含めて、
荘厳で幻想的な、まるで薪能みたいな「えびすしげなり」でした。
この、もいち堂版こそ
奉納演劇としてのこの芝居の決定版だったと言っていいかもしれません。

それは、もいち堂マジックと言っていいかもしれません。
とにかくあそこは普通の劇場じゃないということが
どんどん武器になる。

さあ、その「えびすしげなり」を
基盤において進化させていった2012年の本丸が11月

「ひーるべる」

です。
この内容については
最近稽古場ブログに締めとして長々と書きました。
タイミングが微妙だったのであまり気づかれてないかもしれません。
よろしかったらご覧下さい。
http://ameblo.jp/3297jp/

いろんな方にカムカムの最高作だと言われました。
自分でもそう思います。

何が違うのかと言えばうまく言えないけれども。

震災以来、考え続けてきたことのひとつの結節のようなところもあります。
「浜燃ゆ」「水際」「かざかみ」「えびす」と
もっと前から続いている海沿いの土地が破滅する物語の集大成的な部分もあります。
劇団員達の成長もあります。
素晴らしい客演に恵まれたということもある。

しかし何よりも昨年一年に、
いや、昨年そして一昨年、
とりわけ、この二年間に経てきた様々な、
様々にすぎる、極彩色の経験が、
一つの舞台に収斂していった気がしてます。


この二年で、自分は脱皮をしたと思います。


強引にへび年にからめてみました。

脱皮というのは、新しく生まれ変わるというよいイメージで捉えられますが、
へびは、別に脱皮して進化するわけではありません。
外界と摩擦し、接触する外皮が痛み、硬化するから、それを捨てて、新鮮で敏感な生身をさらすのです。
人も普通に生きていると、外皮といいますか、
外界を感知し、現実と摩擦するレセプターみたいなものが、
徐々に硬化していくものだと思います。
それはすべからく誰しもに、時間とともに起こることで、
いくらそのことに気をつけていても、
誰もが避けえない劣化だと思います。
だからこそそうやって硬くなってしまって、
外界に対する感知が鈍った外皮を、
へびのように定期的に脱ぎ捨てていかないと、
外界と隔絶した鈍い存在になっていくと思います。
しかし、我々はおそらく、
そうやって硬くなった皮を脱ぎ捨てることが相当に苦手なのです。
進化するという確実な約束事があってこそ、
ようやくおずおずと脱ぎ捨てるくらいで、
それが鈍化しないためにという、
消極的な理由ではなかなか、そこまで大胆な行動をとれない。
しかし、脱皮は必要なのです。
新鮮で敏感な自分でなくてはいけないのです。
しかしそれは保持できない。
であれば、いつもそういう自分との距離感を意識し、
脱皮を目論んでいくということです。
あえて硬い壁に背中をこすりつけたりして。

なんてことを考えました。

今ここを超えて進んでいかなければならないということでなく、
放っておいたら腐っていくという現実と戦うってこと。

なかなかこれは、自分にとって大きな転換点なのかもしれません。

今年もまた
へびのようにニョロニョロと、そしてスルスルと
時にはとぐろを巻いて睥睨し、舌なめずりして、
いろんな経験をすり抜けて行こうと思います。

すでに今年の仕事は始まっています。

「詭弁・走れメロス」

横浜でのプレビュー公演は年末、
好評のうちに終えました。
今までやってきたこととはまた趣の違った作品ですが、
これは相当に面白い舞台です。
演出なのに何度も見たい。
原作者森見登美彦さんの世界に初めて触れましたが、
面白いです。
カムカム好きは絶対に合う。
なぜなら森見さんは僕と八嶋の中高の後輩だったのです。
偶然。

「叔母との旅」の方法を交えて、
小説の劇化に臨みました。
若くてイキのいい主役の美男女も魅力的ですが、
そのやや前衛寄りな演劇的方法論を支えてくれる、
昔ながらの小劇場仲間が頼もしい舞台です。
それだけで見る価値あり。
小野寺さんともまた組んでます。
あの人とは本当に感覚が合う。

4日から銀座博品館で幕開きです。
お待ちしています。

そのあとは
EXILE「ダンスアース」脚本
鹿殺し「BONESONGS」出演

と続き

5月 ウエストエンドスタジオ
カムカムミニキーナ〜シリーズサラウンドミニキーナ〜
「熊の親切」
(これは出演者若干名募集中)

11月 座高円寺
「クママーク」
(久々の山崎樹復帰!)

と続きます。
今年のカムカムは「熊」で押す山芝居!

と、最後は宣伝になりましたが、

今年もカムカムミニキーナ、松村武をよろしくお願いいたします。


2013 1.1

at 02:05, 松村武, -

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