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カムストック第七十二談「馬の耳に念仏」

皆様、あけましておめでとうございます。

2014年もカムカムミニキーナをよろしくお願いします。



昨年もまたいろんな舞台に携わらせていただきました。



「詭弁・走れメロス」で森見登美彦作品に挑戦させていただき、



「ダンスアース」でEXILEさんと組ませていただき、



劇団鹿殺し「BONESONGS」で覆面レスラーを演じさせていただき、



そしてカムカムではサラウンドミニキーナ&ナライブでの、

「熊の親切〜閻魔悪餓鬼温泉騒動記〜」



それらをすべて経ての2013年のメインイベント

「クママーク〜隈膜下蜘蛛真赤熊野千年真悪乃生意気〜」



自分の中ですべての仕事は繋がっています。

その一つの結節点として、

「クママーク」は大きな成果のある作品でした。



しかし、まだまだ戦いは続きます。



すでに森見作品挑戦第二弾「有頂天家族」は幕開き秒読み。

古事語り部座では「ふることぶみ」が島根雲南と画期的な合同市民劇。

市制60周年記念の新作「郡山千本桜」もあります。

カムカムもまた新たな切り口で二作品の新作を構想しております。



他にもいろいろあります。

今年もどうぞお楽しみに。



さて年頭にあたって毎年干支にちなんだ文を書いておりますが、

今年は午年でございます。

馬と言えば、ことわざやら逸話に事欠かない存在ですが、

やはりまず出てきますのが

「馬の耳に念仏」

馬に念仏聞かせても意味ないやんかという諺です。



確かに馬の耳に念仏聞かせても、

意味もありがたみもわからんやろうし、

それは無駄な行為という喩えではあるんでしょうが、

逆に考えると、

人の耳に念仏聞かせて、

果たして一体どのくらいの数の人が、

その意味とありがたみを理解し、有益に役立てているのでしょうか。



念仏、お経というのは意味のある文章です。

子供の頃は意味も分からず、

「なんまいだーなんまいだー」

って音感だけで言ってたりしましたが、

これは決して適当な文字の羅列なのではなく、

非常に奥深い思想を言葉にした、

意味の塊のようなものです。



非常にざっくりと言うと、

元来の仏教はそこに書かれた言葉の意味を

常人ならざる修行と不断の思索、勉強に励むことで

理解し、記憶し、実行することで、

成仏という道を目指すというのが、道でした。

それは、僧侶というその道のエキスパートだけが関わることのできる類のものでした。



しかしいつしか大乗仏教というものが現れ、

意味の理解も修行も、そういう専門的な努力を伴わずともただ、

「なむあみだぶつ」

と唱えていれば、

浄土への道があるのだということを言いました。



それだけ聞くと

その場しのぎな安売りの必勝法のようにも思えますが、

戦乱飢餓の悲惨が常の世の中において、

どこを向いても救いのない普通の人生を送っていた人々にとって、

これほど有難い話はなかった。

難解な思想を理解し、人間離れした修行に励む超人にはなれなくとも、

ただ、意味も分からず、

その謎の言葉を真面目に繰り返しているだけで、

悲惨な日常から救われる道があるというのですから。



だからこの国で大乗仏教は広まりました。

今も日本の人のかなりの割合が、

そのように仏教を、

ともすれば宗教というものを捉えているのではないでしょうか。

それがすなわち

「なんまいだーなんまいだー」

です。



まるで馬の耳に念仏を聴かせるように、

人の耳に聴かせる念仏も、

ほとんどの場合、全く意味は通っていない。

しかし馬と違って人の耳には、その言葉のありがたみが通ります。

「なんまいだー」の意味はわからずとも、

そこには自他を問わず浄土へと通ずる願いと、

それを適えてくれる大きな存在への畏れ敬いの思いがあるからです。



経には塊のような密度の意味があるのだけれど、

大事なことはその意味を逐次理解することではなく、

その言葉が音声として発せられるという現象、事実であり、

その物理的に音声として発せられた音の羅列にこめられた思いである、ということでしょうか。



これはつまり歌です。

歌にはもちろん意味があります。

しかし歌は、その歌詞に込められた意味を理解することが大事なのではなく、

それが実際に声に出して歌われること、

それを実際にただ声に出して歌うことの方が大事なのだということ。

そしてその歌を歌う時に、そこに歌う本人がこめる思いこそが、

何よりもその歌にとっての価値なのだということ。



これはつまり芝居です。



もちろん、

常人ならざる修行と不断の思索、勉強に励むことで

理解し、記憶し、実行する芝居の技量というものはありましょう。

それを追求する芝居道もありましょう。



しかし一方で、

意味の塊たる芝居が、

音そのもののように物理的な要素として発せられ、

その発せられた要素の意味よりも、

その音が実際に発せられるときにこめられる願いや畏敬の思いこそが、

観客という他人に届く唯一の価値であると考える道もある。



これはつまり祈りです。
祈りの言葉は意味よりも発せられることこそが大事。

そしてその祈りを発する思いこそが価値。



つまり何が言いたいのかと申しますと、

「馬の耳に念仏」は無駄ではない。

そこに、馬に向かって仏の言葉を吐いた何者かの、

何らかの願いと畏敬が存在するのであれば。

あるいは対象たる馬に、

そのようなものが存在するのであれば。



本年もカムカムミニキーナをよろしくお願いします。

ここのところ意味で追うと非常にややこしい芝居ばかりですが、

もはやリアリティとか上手下手とか洗練とかわかりやすさとか言ってる感じでもないと思ってまして

要は、恣意的なるその物理的な言葉と段取りの羅列に

出来うる限りの限られた修行を重ねつつ、

とどのつまり、

どれだけの願いと畏敬を込めて

その経を声に出して読み上げ、

その歌を声に出して歌い、

その祈りの言葉を口にするかであろうと考えています。



2014年 年頭














at 00:11, 松村武, -

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