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カムストック第七十談「クママーク取材旅行顛末その一」

2011年より一年ごとに

「鎮魂」
「祈り」

とテーマを持って、年二本の新作を作ってきました。
そして今年のテーマは「復活・再生」

奈良で「古事記」と深く触れて以来、
古代の説話に惹かれ通しの状態はおさまらず、
今年は「古事記」にも関連が深い、

神の森、熊野

を舞台にその「復活・再生」の物語を書こうと思いたちました。

という流れで春のサラウンドミニキーナが
小栗判官伝説を基にした

「熊の親切」

おかげさまでご好評いただきました。
九月二十一、二十二日に奈良もいち堂での公演も決まっております。

そして秋の公演は

「クママーク」

この作品を執筆するにあたり、
実はまだ訪れたことのない熊野を、
一度この目で見ておかないととずっと思っていました。
そして先日、
ナライブで奈良に訪れたついでに
思い切って取材旅行を敢行したのです。

さて、そこではいろいろなことが起こりました。
その顛末を書き記しておきます。
相変わらず長いですが、
久しぶりにツイッターだけでは書ききれない、
長文に値する経験をした気がします。
時間にしてわずか二泊三日のことなんですが…。

熊野は、
奈良県、和歌山県、三重県にわたる広大な山岳森林地帯で、
古来、神の森と称され、霊山として信仰の対象となった地域です。
「蟻の熊野詣」という言葉があるほどに、
昔はひきもきらず、人々が詣でました。
そこには三つの大きな神社があって熊野三山と呼ばれます。

熊野本宮大社
速玉大社
那智大社


です。

そこは

生死の境界の地帯

であると言われます。
「熊の親切」で描いた小栗判官の説話しかり、
一度死んだものが蘇ったり、
死の世界へ行き来できたりする物語がいくつもあります。
まさに

“復活と再生”の森。

三つの神社では多くの神様が祀られていますが、
柱は
スサノオとそして
その母イザナミです。

「古事記」において
イザナミは死後の世界、黄泉の国の住人となりました。
スサノオもまたそんな母を慕って黄泉の国へ向けて放浪し、
大国主の物語の中では
黄泉の国と同一視される
根の堅洲国の王となっていました。

この根の堅洲国こそ、熊野のことだと言われています。

また、古事記の神武東征のくだりでは、
初代帝イワレヒコは
熊野より大和へ攻め入り、大和朝廷を開いたとされます。
その道程でのエピソードが、
熊野全域に多く残されています。

さて、そんな熊野への旅。
先程も書いたようにナライブついでに行くことにしたので、
奈良から向かいます。
実は熊野地方は、全交通機関使った上で東京から一番遠い地域です。
最も速い方法は紀州南端の新宮空港まで飛行機。
そこから車なんですが、
あえて奈良から、
つまりは都の方角から入ってみます。

奈良の橿原に
大和八木という駅があります。
我が故郷大和郡山からだと三十分くらい南に近鉄で行きます。
そこから一日に三本の新宮行きの路線バスというのが出てます。
これは高速を使うのを除いて
路線バスで日本最長の路線です。
新宮まで六時間半。
山を縫う国道168号線という一本道をうねうねと行きます。

一日目。
今日の目的地は十津川温泉です。
十津川村は奈良県の南半分を占めている日本最大の村です。
ただその96%は山林です。
熊野の一部といって過言ではありません。

八木から四時間半のバスの旅。
山山山。
これでもかと山がつらなり、
一本の大きな川沿いに道が一本走っています。
そしてバス停ごとに小さな集落が現れては、
また山山山。

対岸へのしっかりとした橋があまり見当たりません。
たまにあるのは吊り橋。
これは洪水で流されないためにということで、
有名な「谷瀬の吊り橋」などはものすごい高度感と長さ。
バスがそこで休憩してくれるので、
実際に渡ってみようとしましたが、
あまりに簡素な作りと揺れに
怖くて渡り切れませんでした。
住んでる人にとっては日常の道なんですが。

それにしても山深い。
それでも道は一本続いていきます。

そして川は、まるで戦場の光景でした。
治水の戦争です。
十津川は2011年の台風で酷い被害をこうむりました。
その爪痕が今でも生々しいのです。
大規模な治水工事が行われていました。
どこもかしこ工事中で、
細い山道に大きなトラックが出入りします。
慣れてないと、対抗とのすれ違いができないほどの狭い国道。
そんな中をバスは悠々と走り抜けます。
路線バスなので、生活のために買い物帰りの人や学生が乗り降りします。
病院通いの人も多かった。
一時間くらい乗って通うしかないんですね。
平日だったからか観光らしき人間は僕ひとり。
時にはバス一人で貸切状態です。

こんなに奥地にあるのに、
いやだからこそ、
十津川は古来、日本の歴史の節目に大きく関わってきました。
それは土地的に最後の切り札であるかのような誇りと、
熊野信仰にも繋がる“再生”に彩られています。

まずは神武東征の折、
熊野の森にて初代帝イワレヒコは大きなクマにでくわし、
全員が気絶するという事態にみまわれます。
しかし高天原の天照大神がつかわした刀で窮地を脱した一行を、
三本足の八咫烏が吉野へ案内します。
八咫烏はサッカー日本代表のエンブレムですね。
道中は国栖(くず)と呼ばれる人々が一行に協力します。
この八咫烏や国栖が十津川の人々の祖先だと言われています。
(八咫烏には他にも多くの説があります)
つまり神武を大和に導いた一族であるということです。
神武ことイワレヒコがなぜこの熊野から大和に向かったかは諸説ありますが、
大阪から攻め入ろうとして地元のナガスネヒコに撃退され、
和歌山の南端まで逃げてきたか、流されてきたのです。
つまりイワレヒコは敗軍の将だった。
それが熊野の霊力と十津川人の助けで
見事復活再生を果たしたということになるわけです。

このことを十津川の人はずっと誇りとしてきました。

次に奈良時代の壬申の乱です。
大化の改新を主導した天智天皇。
兄である彼と対立し政争に敗れたのが、
大海人皇子、
後の天武天皇です。
「古事記」編纂を命じた張本人ですね。

大海人は兄から逃げて、吉野へ向かいました。
吉野というのは十津川も含めた奈良県南部一体をさします。
そして十津川人などの庇護と援助のもと、
これまた見事復活

大海人は吉野から伊賀、尾張へと向かい、
東国勢力を率いて壬申の乱で関ヶ原にて天智勢力と激突。
勝利して即位しました。

この時に十津川は租税免除とされ、
以来、明治までずっと時の政権に税を免除されていたという
驚異的な話があります。

さらにくだって平安時代。
貴族、皇族の熊野詣が最も盛んだった時期、
十津川は保元の乱に御所守護で出兵しています。

さらに鎌倉時代。
兄頼朝に疎まれた源義経が逃げ込んだのも、
ここ吉野でした。十津川までは来てませんが。
しかしこれは復活ならなかった。

室町時代。
足利尊氏に追い落とされた後醍醐天皇は吉野で南朝をひらき、
復活を期します。
十津川のすぐ北側に大塔という地域があり、
そこに御所とかがあります。
これは後醍醐天皇の皇子、護良親王が大塔宮と呼ばれたことから来てます。
これまた復活はならなかった。

義経も後醍醐帝も、熊野の森にギリギリ届いてないとも言えます。

大坂夏の陣にも十津川は出兵しています。
徳川方です。
それもあって江戸時代も租税免除は続きます。
村の人間は全員が士族とされました。

そして幕末。
このような歴史を持つ十津川人は、
尊王攘夷吹き荒れる京都へ出向き、
御所を守護します。
そして幕末最初の攘夷派の武力蜂起、
天誅組の変に十津川人は大規模に参加します。
ところが、ちょうどそのあたりから、
尊王攘夷が開国倒幕に世論が変わってくる。
天誅組の変は十津川の郷士達を巻き込んで迷走し、
時代遅れとなった過激攘夷派は十津川に潜んで復活を期すが、
無残にも散っていきます。
この時期、十津川郷士と言えば誰も知らぬものなく、
強者の代名詞でした。
坂本龍馬が暗殺されたとき、
暗殺者は「十津川郷士だ」と嘘をついたといいます。
新選組と渡り合った話もあります。

ちなみに今の十津川村のゆるキャラマスコットは
「十津川郷士くん」です。

そして明治。
ダムもない時代。
台風による大水害がこの地域を襲います。
壊滅した村の半分、二千人余りは、
十津川の土地を去り、
当時の新天地北海道に移民。
新しい十津川を建村します。
これが今の新十津川町です。
まさに地獄からの復活です。

このように歴史との関わりには事欠かない十津川村。
それは

「復活と再生」


をめぐる物語に彩られた稀有な土地です。

しかしあまりにも遠い。

都から遠いから遠津川というそうです。

遠いからこその特殊なポジションを何百年も保ち続けてきたのでしょう。

今でも遠い。
奈良の人でもなかなか行かないところなのです。

秘境というでもない。
それほど渓谷の風景とかがあるわけではない。
辺境でもない。
辺ではなくて、近畿のど真ん中の山奥にあるのです。
何と言うんでしょうか。
この孤絶した独特な雰囲気。

来ないとわからないことがあります。

温泉街って雰囲気でもないし、
何か、閉じ込められてる空気感がありました。
違う国みたいな。
架空の国みたいな。
それでいてど真ん中な余裕というか。巨大な懐というか。

しかし温泉は本当によかった。
温泉と宿しかないですが、
隔絶感が最高に気持ちいい。

バスを降りて宿についたのがもう夜。
一日目はこうして
バスの車窓を眺めながら十津川の歴史を思ううちに過ぎていきました。

そして問題の二日目を迎えます。

実は十津川には、
先ほど書いた熊野三社の奥の院とも呼ばれる

玉置神社

という知る人ぞ知る神社があります。

この神社は日本最古の神社と呼ばれ、
今でこそ古事記の神様を祀っていますが、
それよりも全然前に
神の石を祀った聖地であったと言います。

祀られている神様のうち、
古事記の中に出てくる神様で珍しいのが
クニトコタチノカミ

イザナギ、イザナミ以前の人の形をしてない宇宙混沌の時代の混沌そのものの神です。

社殿もかなり古いし、
よくは知りませんが、
パワースポットとしてはかなり強力らしいです。

そして一説には

呼ばれないと行けない神社らしく、

呼ばれてないのに行こうとしても、
何やかんやでたどり着けないというのです。


その玉置神社に参拝することが、
この旅の最大の目的でした。

なぜか?
直感です。

呼ばれたんでしょう。

しかしその日僕は、
その

玉置神社の霊力

に文字通り振り回されることになります。
それはまさに
運命そのものを弄ばれるかのような出来事の連続でした…

玉置神社は玉置山の頂にあります。
結構な山ですが、
神社の入口すぐ近くまで車道が繋がってます。
土日は十津川温泉からのバスが出るらしいのですが、
平日は出ません。

僕はタクシーで行こうと簡単に考えていました。
ところが

タクシーってものが十津川にはほぼない

という驚きの事実に直面します。

そこであらためて地図を見返すと、山は宿からもだいぶ離れています。
どうしようかといきなり途方に暮れていると、
宿の人が

親切にも

送迎で送ってくれると言ってくれました。
ありがたい!
普段はそんなことはしないそうなんですが、
僕の余りに途方に暮れる姿を見かねていただいたのでしょう。
それですっかり安心して、朝もゆっくりめに宿を出て、
車で向かってもらいました。

しかし実際参拝道は地図で見たよりも
全然温泉中心部から離れててなかなか着きません。
町のスケールが大きいんですね。
徒歩だったら一時間以上かかったでしょう。
送ってもらって本当に助かりました。

さて車は参拝登山道に入り、
うねる道の脇に滝と鳥居が見えました。
そこで車は止まり、

「皆様、ここから参られますので」

と送ってくれた方が言うので、僕は言われるままに車を降りました。
ひとしきりお礼を言い合い、やがて車はUターンして温泉に帰っていきました。

僕はそこがてっきり神社そばの駐車場だと思い込んでいました。
となると十五分ほどで本殿があるはずです。
しかし滝?滝なんてあったかな…?

そこであらためて地図を見てびっくり。
それはまさに玉置山の登山口だったのです。
そこから徒歩で神社まで登らないといけないということなのです。
すると目の前に標識が。

「玉置神社10キロ」

10キロの坂道を歩いて登るしかないのか…
これは数時間かかるぞ…
本当に

皆様ここから参られますのか?

朝八時半とはいえ、すでに灼熱の陽光が容赦なく直射してきて、
歩く前からすでに汗だくです。
しかし仕方ないので、
これはご参拝なのだ、と気持ちを新たにして僕は歩き始めました。

すると少し歩いたところに
「玉置神社登山道 4キロ」
という表示と山道らしき入口がありました。
しかし見るからに人が歩いてないような獣道が続いています。
僕はまさかこういう展開になると思ってなかったので、
スマホにダウンロードした簡易地図しか携行してませんでした。

この旅で、登山をすることなど念頭になかったのです。
そのスマホ地図は一応昭文社の山と高原地図シリーズなんですが、
実際のものよりやや詳細度に欠けるもののようで、
玉木神社付近の車道以外の登山道が書いてませんでした。
なのでさすがに警戒して、僕は10キロの車道を頑張って歩くことにしました。
(後日よく地図を見る限り、車道と登山道の区別が僕はついてなかったようです)

もしここで4キロの登山道に僕が踏みだした場合、
その日のその後の展開は大きく変わったことでしょう。
それがよく転んだか悪く転んだかは考え方です。
何を後悔し、何を反省すればいいのかは、
全くもって運命的に難しい問題ですが、
ともかくここで10キロの車道を歩くことにしたことが、

ひとつめの大きな運命の分かれ道でした。

辺りには全く人気がありませんでした。
車道とはいえ、車も全く通りません。
朝なのにすでにギラギラとした陽光と
種類のわからない鳥の囀り。
果てしなく続く木々の緑。
さわやかというには、体はすでにドロドロです。
そんな感じで歩き続けていると、
何らかの獣の激しい叫び声が聞こえました。
犬のようでいて、犬ではない。

熊?
狼?
猿?


獣は複数で何やら激しい感情に揺さぶられている状況のようです。
僕は思わず足を早めました。

当然喉が乾いてきました。
しかしこんな展開になると思ってないので、
昨日バスの乗る前に八木駅で買った、
500のお茶の飲みかけしかカバンにはありませんでした。
とにかく神社に着けば、車で行けるくらいだから
自動販売機くらいあるだろうと思い、
買い足してなかったのです。

僕はそのお茶を飲みながら歩き続けました。

小一時間くらい歩いたでしょうか。
まだまだ先は長いというのに
徐々に疲労が足に出始めてきた頃、
一台の車が後方から走ってきました。
僕はそこに人の気配を久々に感じて少しホッとして
ぼんやりとその車の来るのを見ていました。

するとその車は僕の傍で止まりました。
運転していたのはおじいさんです。
でもその人の風体はただのおじいさんではありませんでした。

ラストエンペラーみたいな丸いグラサンにシルバーのピアス。

僕は咄嗟に少し身構えました。

「乗り!」

そのおじいさんは僕に車に乗るように言いました。
そこから神社まではまだまだあって、とても歩く距離じゃないと言うのです。
瞬間、僕の胸は感謝の気持ちに満ち溢れ、
おじいさんの外見への偏見など吹き飛んで、
速攻で車に乗りこみました。
それほど疲れていたのです。

なんて親切な人だ!

おじいさんは、僕を乗せて山上の神社へと車を走らせました。

このグラサンおじいさんとの出会いから、
この日の僕の運命は予定してたものから
大きく逸れたものになっていきます。
あの登山道に踏み込んでいたなら、
このグラサンおじいさんとは出会っていなかった。
後から考えるとこのことは
とても運命的なのです。
ある意味、

出会うべくして出会った

としか思えません。

さて、グラサンおじいさんの車の助手席で雑談をしながら、
車は神社へと向かいます。
おじいさんは神社駐車場付近の食堂を経営してる人だそうです。
玉置山を登る人は普通は登山道の方を歩くと。
あの4キロの道の方です。
しかしよくよく聞くと、その登山道の始まりは全然僕が来た場所ではありません。
ではあの道は何だったのか?
車道はうねって遠回りしているので、
そこを歩いて登っては2、3時間ではすまないとの話です。
確かに神社に着くまで
僕が想像してた以上の残り距離がありました。
本当に乗せてもらって助かった。
僕が東京在住だと言うと、
何とグラサンおじいさんも東京に一時いたことがあるということでした。
僕が玉置神社に異様に興味があって来たのだと話すと
とても嬉しそうに
この神社の偉大さを話してくれました。

グラサンおじいさんは僕にこの先の予定を尋ねました。
僕は玉置神社に参ってから、
十津川温泉に戻り、
そこからバスに乗って熊野本宮方面へ移動。
本宮参拝してから湯の峰温泉まで歩いて宿泊という予定を立てていました。
しかしそのためにバスに間に合うように温泉に戻る時間を考えると、
すでに可能かどうか微妙な時間に差し掛かっていました。
さすがにおじいさんに戻りも送ってもらうわけにはいかないですから、
徒歩でこの道を下って戻るとして、
さらに宿の人に送ってもらった道もすべて歩くと考えると、
4時間くらいはかかりそうです。

そんな話をしていると、
グラサンおじいさんは言いました。

せやったら大峰奥駈道を歩いて本宮へ行けばええやんか

大峰奥駈道…
それは奈良出身者、そして登山愛好家として、
死ぬまでに一度は避けては通れないと思っていた道です。
吉野蔵王から熊野まで
全部を歩き通すと一週間以上かかります。
白装束の修験者達が修行した神聖なる道…

グラサンおじいさん曰く、
大峰奥駈道で玉置神社から熊野本宮大社までは
70、80才のおばあさんでも7、8時間
僕のような壮年男子であれば、五時間くらいだろうと。
つまり四時間かけて十津川に戻るくらいなら、
その方がいいに決まってると。

天気もいいし、まだ朝も早い(九時半くらい)
ゆっくりいっても十分日暮れに間に合う。
せっかく車に乗せてもらって時間短縮できたのだから、
その時間を生かしなさいというのです。

確かに単純に今車で走っている道を歩いて戻るというのは余り気が進まないし、
何せ憧れの大峰奥駈道です。
その一部にせよ、こんな風に歩ける機会がそう何度も今後訪れるわけではないでしょう。

ただ現状、登山の装備ではないんだけどな…という不安もありました。
僕の心は揺らいでおりました。

そんな中、車は車道の終点、すなわち玉置神社脇の駐車場に着きました。

そこにはグラサンおじいさんの店があり、
違う車で来ている違うおじいさんがおりました。
このおじいさんは、グラサンおじいさんの知り合いで、
どうやら、参道の地蔵様やらにお花を毎日供えたりする方みたいでした。
二人共地元の人のようです。
お花おじいさんによれば、今日は参拝客が誰もいないということでした。

車を止めた脇に細い山道があります。
グラサンおじいさんはそこから登っていけば、全部参れると言いました。
全部参った末に、またここへ戻ってくると。
この全部参れるの意味が僕にはあまりよくわからなかったのですが、
言われるままにその道を歩いていくことにしました。
丁重にグラサンおじいさんに礼を言い、
全部参って、戻ってきたら彼の食堂で何か昼飯を食べようと心に決めていました。

さて、一人山道を登っていきますと、
思った以上に距離があってなかなか神社に着きません。
するとおもむろに小高いピークに出ました。
そこが玉置山頂上でした。
頂上から下ってさらに奥へ向かうと、
何やらいかにも清らかな木の鳥居が続々と出現し、
そこをくぐっていく中で、
杉やら玉石などを祀った祠が、次々と道すがら現れました。
このあたりが日本最古と言われる原始信仰の名残でしょうか。
続いて稲荷の社などを通過し、
とうとう玉置神社本殿に到着しました。
それはそれは見事な社で、圧巻の建築。
とにかく建物は古くて美しい。
そして何より神秘的な雰囲気。
ここが最大のパワースポットと言われる所以を肌で感じます。
樹齢何千年の信じられない太さの巨杉が境内を囲みます。
これぞ熊野の奥の院。
日本の神々信仰の最初で最後の地という風情が堪らない。
他に類を見ない神社です。
もし本当にここに

呼ばれた

のだとしたら、これは大変なことです。
十津川という土地自体が、ある決意をもって入らねば
滅多に行き着かない奥の奥です。
思い返せばそれを昨日のバスの旅で実感していました。
その十津川の中でも、
いろいろと紆余曲折あって、
ようやくたどり着いた奥の奥です。

聖地

この言葉がこれほどしっくりとくる場所が他にあるでしょうか。

にわかに立ち去り難く、しばし僕は無人の境内を何度も行ったり来たりしていました。
この後どうするかはあまり考えず、
とにかくこの地を出来うる限り堪能することを優先しようと思い、
時間を気にせずにうろちょろしていました。

すると無人の境内で声をかけてきた人がいます。
振り向くとそれは、
さっきいたお花おじいさんではありませんか。
お花おじいさんは各祠にお花を供えながら僕の後をついてきていました。
すごい神社ですねぇなんて話が雑談になり、
お花おじいさんもまたグラサンおじいさんと同じく、
東京にいたことがあるということがわかりました。
お花おじいさんはグラサンおじいさんに僕のことを多少聞いていたようで、
今から熊野本宮へ行くんやろ?と聞いてきました。
そしてグラサンおじいさんと同じく、
だったら大峰奥駈道を歩くことを強く僕にすすめ、
グラサンおじいさんよりも具体的に、
道中がどういう坂道で、
どの辺りがキツくてどこが楽でとか、
奥駈道の様子を事細かに教えてくれました。

何とも親切なことに。

そして結論としてグラサンおじいさんと同じく、
まだまだ朝早いし、(十時半)
君なら若いから五時間もかからないだろうとなりました。

それだけ言われて
それでも行きませんという方が意志が必要だったでしょう。
僕は大峰奥駈道を行く決意をし、
そうお花おじいさんに告げました。
するとお花おじいさんは、
だったらさっきのグラサンおじいさんの店がある駐車場まで戻るのは逆方向になる。
このまま神社の先に行きなさいと教えてくれました。

いやしかし…
乗せてくれたグラサンおじいさんへのお礼として
彼のお店で昼飯でもと思っていたわけだし…
それになくなりかけてたお茶に関して
水分はおじいさんの店の自販機で二、三本ペットボトル買えばいい思っていたし…

ここは実際少し迷ったんです。
駐車場まで戻ろうか戻るまいか。
そしてこれもまた大きな運命の分岐点だったのです。

しかし畳み掛けてくるお花おじいさんの言葉に押され、
僕はそのまま奥駈道へ踏み出してしまいました。

そして神社を出る前に、
残りのお茶を飲み干し、その空の500のペットボトルに、
手洗いの水を満水にしてカバンに詰め込みました。
これは今から思えば、僕の最大の迂闊です。
山をなめんのか!と罵倒されても返す言葉がありません。
たとえ五時間の楽な山行であれ、
灼熱の水場がない道で、500の水では足りるわけがない。
まあ正直、水場があるかどうかすら
ちゃんと確認せぬまま踏み出していたのです。
そして大峰奥駈道は何が大変かって、
水場が全然ないってことなんですね。

さてそんなこんなで水をくんでいる間に
お花おじいさんはどこかへ消えてしまいました。

僕は気にせずに、
この聖なる神社に別れを告げ、
いよいよ大峰奥駈道に一歩踏み出しました。
時間にして10時40分頃です。

流されてる。凄い流されてる。よし、ならばどこまでも流されよう

そんな気持ちでした。
この流された果てに何が待っているのか。
私をかように流す水はどこからどこへ流れるのか。

果て…果てと言えば
十津川の村を隔てて見える向こうの山脈の名は
果無山脈(はてなしさんみゃく)です。
地上の果ての森の果ての向こうに見える果のない山脈。
ロードオブザリングのような世界。

まさにその世界の果てに踏み込んでしまったのですどうやら。

鳥居をくぐって奥駈道に出た途端、
新たな人にすれ違いました。
中年の男性で、一体そこで何をしていたのかわかりません。
参拝客なら逆方向から現れるはずで、
そこですれ違うということは、
奥駈道を逆にこちらへ向かって歩いてきたということになります。

その人はどうやら
お花おじいさんと会ったみたいです。
そして僕のことを聞いたらしい。

今から奥駈道行くんだって?大丈夫?15キロって書いてあるよ

奥駈道を歩いてきたと思った人からそんな風に呆れた感じで言われた僕は、
やや不安になりましたが、
愛想笑いして、その人をやり過ごし、先へ進みました。
しかし考えてみると、
じゃあのあの人はどこから来たんだ?
奥駈道から現れたじゃないか?
そしてお花おじいさんはどこへ消えたんだ?
その人とすれ違ったってことは、
あの人も奥駈道へ行ったのか?
つまり、返す返すも、あの人ともう少し話すべきだったのです。

あの謎の中年男性は何らかのストッパーの役割を担う存在だったのかもしれない。


さあ、
しかしすでに孤独な山行は始まりました。

始まりはしばし平和でした。
あらためてスマフォで地形図を確認。
道は綺麗に整備されていて迷いようもなく、
両おじいいさんが言った通り緩い下りが続きます。
地図に書かれたコースタイムなども頭に入れて進みましたが、
だいたい二割くらいまいて進んでいたので、
この調子だと五時間で行けるかもと思い小走りで進んでいました。

しかし徐々に道は悪くなっていきます。
何分かに一回道を見失います。
そして結構険しい登り道が現れ始めました。
時間は午後にさしかかり、
気温も上がってきます。

最初のピーク、大森山の頂上に着く頃までは、
まだ大丈夫でした。
その大森山の急な下り道くらいから、
急激に体力が厳しくなってきます。(午後一時)

問題はまず靴です。
登山靴じゃなくて普通にスニーカーでした。
それでも行けるような道を想像していたのです。
まあ、なめていたということです。
しかし蓋を開けてみると
それは本格登山、しかも上級編といった道具合でした。
特に下りのちょっと泥化した急坂で、
滑って滑って危なっかしくてなかなか踏ん張りがきかず、
慎重に進んでかなりタイムと体力のロスをしてしまう。
さらに山道歩行の圧にそもそも耐えられる構造ではないスニーカーでは、
最も致命的な靴擦れを回避できません。
足裏には早くも水膨れが出来始めます。

そして水問題。
それは猛暑の一日でした。
どんどんと汗で水分が失われていきます。
水分をとらないと熱中症という危険が出てきます。
しかしわずか500しかない水は計画的に飲まないとすぐに底をつく。
日暮れまでの時間を考えて、
一回の飲みに口一杯含む量と厳しく決めて少しづつ慎重に飲んでいましたが、
そのせいで逆に
やがて熱中症的な症状が出始めて、
頭が朦朧としてきました。

しかもよく考えると7時半の朝飯以来何も食べてないのです。
空腹もあいまってどんどん力が失われていく。(午後二時)
普通の登山ならこういう時のために、
いろいろなサプリメントなどを持ち歩くもんですが、
一切何も用意してきていない。

この靴と水、食料の問題がどんどんと体にのしかかってきて、
脳も冷静な判断ができなくなってきます。

大森山下りから、次の五大尊岳上りにかけて、
すでにバテきった状態の僕は、
少し進んではへたりこんで休憩を繰り返し、
地図上のコースタイムを全然クリアできなくなっていました。
時間にして午後三時近く。
ここで僕は日暮れ前にゴールまで到着不可能と判断、
熊野本宮大社まで歩くことをあきらめ、
五大尊岳を下ったところにある

六道ノ辻

という恐ろしい名前のところで側道に逸れ、
上切原というところに下山、
橋を渡って道の駅奥熊野古道本宮というところからバスでその先湯の峰へ向かう
というルートに切り替えました。
このペースで行くと午後5時には下山できそうです。
そう決めた瞬間、道の駅で自動販売機のジュースを買ってがぶ飲みする自分の姿が浮かび、

犬のように涎が出て、その涎を飲み込みました。

その幻を餌に自分の体を奮い立たせ、
六道ノ辻を目指しました。

五大尊岳からその辻までは地図で見る限り下り道でした。
ジュースの幻効果でさっきのバテた状態よりは元気になった僕は、
さほどコースタイムに劣るようなペースで進んでいたわけではありませんでした。

しかし行けども行けども六道ノ辻に出ないのです。
遅くとも三時半には着くはずなのに、
全然到着しません。

脇にそれる道はいくつか現れるのですが、
だいたいどこかへ通じる道なら、
道しるべに矢印と行き先の地名が書いてあるものです。
行き先がなくともせめて
「六道ノ辻」の標識はあるはずです。
何せ地図上でも大きく書かれている。
そういうものが何もない脇道は逆に危険で、
地図にものってない迷い道の可能性があります。
だから道しるべを今か今かと探し続けているのですが、
全然見当たらない。
しかも六道ノ辻には
「金剛多和の宿跡」
なるものがあって地図上では目印となっているはずでした。

ところが道はやがて急な登り道が続きだし、
さすがにジュースの幻効果も薄れて、
いよいよ足が動かなくなってきます。
この速さで進んでもまだ辻まで出ないなら、
辻より先もコースタイムの三倍かかる。
そうなったら日暮れじゃないかと焦り始めた午後四時頃、
僕はとある山頂に着いていました。
そこは六道ノ辻を越えたその先の山、
大黒天神岳の山頂でした。

やはり六道ノ辻を見落としてたのです。

登山歴三十年近い男の大きなミスでした。
それだけ頭が働いてなかったということでしょう。

その山頂でへたりこんで僕は考えました。
この先進むか、戻って辻を探すか。
残りの体力ももうないような状態で、
やはりこれからまだアップダウンが激しい本宮までの道を
日暮れまでの二時間程でゆくのは無理と判断。
思い切って戻ることに決めました。
戻って六道ノ辻さえ見つければ、
二時間で下山できるはず、と。

ちなみにスマホで六道ノ辻の写真を検索したけど見当たりませんでした。

残り僅かな水を残り一口分まで飲み、
決めたからには速攻!
とばかり、僕は余力を振り絞って
元来た道を文字通り駆け下りました。
恐らく何の標識もなかったので見過ごした脇道のどれかが、
六道ノ辻である。
その目印を見落としただけなら、
今度は冷静に探せばわかるはず、と。

三十分くらい走り、もう走れないと思った限界で、
一つめの脇道まで戻りました。
そこにはやはり何の標識もなく、
かなり迷ったんですが、
やはりこれではないと判断し、
ちょっともうフラフラだったんですが、
さらに走り、もう一つの脇道のところに戻りました。

するとどうでしょう。
そこには明らかに

「金剛多和の宿跡」

なる立札がある祠があるではないですか。
そしてそれ行きに見た記憶あるじゃないですか。
そうそれこそが

六道ノ辻

だったのです。
そして水不足と疲労で朦朧とそこを通り過ぎた自分は、
その祠を完全に認識しながら、
それが目印だと気づかずに通り過ぎていたのです。
何という愚かな俺!
時間は午後四時半…ようやく脇道下山道に入る。麓までの標準コースタイム一時間十分。

ちなみに六道とは
すべての人間が,死ねばその生の業に従って輪廻転生するという6種の世界。すなわち天道,人間道,修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道

ここまでの顛末、
そしてその後の顛末を考える上で
この曲がり角が

六道ノ辻

という名であったことに慄きます。

今から振り返って何がよかったかは一概にわかりませんが、
物理的に考えると、
あの大黒天神岳で引き返さずに、
そのまま進んで本宮まで行った方が、
結果的には短時間で到着し、
しかも何事もなく、
いやあ、きつかったねぇ
ってことでこの奥駈道顛末は平和裏に終わっていたことでしょう。

しかしなぜか僕は六道ノ辻へ戻った。
そしてそこから大変な体験をする。
まさに輪廻転生のごとく、
地獄極楽を何度もめぐるかのような変転を。
この辺りのことは、振り返ると何かに憑かれていたようにも思えるのです。
ただ、それは決して悪い何かでありません。
確実に。
結果的に。

さて、六道ノ辻を曲がって、
上切原というところへ向かう下山道を行きます。
これがやけに穏やかで緩やかな下り道が続く。
ところが問題は、
この道が、余り人が通ってない道だということでした。
奥駈道全体が普通の登山道に比べると人通りが少ない道で、
そういう道は、
例えば
枯葉が降り積もってどこが道かわからなくなっているとか、
踏み固められずに地盤が柔らかくなっているとか、
道の目印がなくなっているとか
そういう感じで、目に見えない危険をはらむのですが、
この下りの脇道自体が、
かなりの人通りの少なさを露呈している道で、
穏やかな道ではあるんだけど、
谷側に崩れ落ちた斜面を縫う道の端っこがわからないので、
一歩踏み間違うと柔らかい土壌を踏んで足が谷底へ落ちてしまう。
そういうところでまた神経をすり減らす道なわけです。

先ほど辻までの戻りに猛ダッシュをかけた体は、
限界信号で、そこへすり減らす神経ももはやないのです。
何度も斜面で滑り落ちそうになりながら、
ギリギリのところで踏ん張り、
何とかいいペースで進んで行きました。

するとある斜面で、
道しるべが斜面下の木に結びつけてあるのです。

山道での道しるべは木や石に結んである派手な色の紐です。
山道というのはうねうねと縫って進みますから、
直感的に、え?と思う方向に急に曲がっていたりしがちです。
それをただ直感的に進んでいくと道なき道に至り、大変危険なことになります。
ですから、道しるべを信じて見失わないことはとても大事。

その時見つけた道しるべは
穏やかな道が続いていくように見えている斜面を越えた先ではなく、
斜面をやや落ちたところに生えた木に結び付けられており、
よくよく見るとその先、つまりさらに斜面の下方にも
赤い道しるべをつけた木が数本見える。

これは一見まっすぐ行くのが正しいように見えるが、
まっすぐ行く道には危険があって、
ここで斜面下へ下る道が正しい道なんだと僕は経験上判断しました。
現にそういうパターンの経験は何度もありましたから。
しかし見るからに斜面下にはなぎ倒されたような木が積み重なっていて、
道というには?がぬぐえない。
でもそのちょっと先、つまりかなりの谷底まで斜面を降りたところに、
道の続きがあるように見えなくもない。
それにこの赤い紐は道しるべ以外の何者でもないはず。
わざわざここで何本もの木に赤が見えるようになっているということは、
いかにもここで曲がれということではないか。
まっすぐ行っていいなら、
こんなところに道しるべはいらないはず。

とにかく僕は斜面下の道の有無から確かめてみようと思いました。

この時の判断は朦朧としてなかった自信があります。
なぜならこの少し前にリュックの底に、
ずっと昔に芝居の稽古のために買った(稽古用のリュックでした)
ゲル状のアミノバイタルの余りが一つ入っていることを思い出したからです。
僕はその最後の希望とも言うべきバイタルをこの斜面を下るに際して飲むことにしました。
その斜面下へのルートが正しかったとしても、
それは相当体力を消耗する急下りが続くということを意味していたからです。
このアミノバイタルの力はすごかったです。
信じられないくらいに気力が復活しました。
僕はその復活した気力体力でもって、
斜面したの赤い道しるべのついた木に向かって急坂を下り始めました。

ところがその第一歩目から、斜面は大きく崩れ、
まるで

蟻地獄

のように地面が谷底へ流れていき、
僕の体もまたずるずると下へ落ちていきます。

それでも道しるべの木につかまり、
さらにもう一つ下の道しるべの木に向かおうとします。

するとさらに柔らかい地面は大きく崩れ落ちていきます。
余りに地盤が不安定なので、
そこら中に生えてる木につかまったりするのですが、
これがほとんどが倒れているだけで、
生えてないことがわかってきます。

何と、生えてるのは数本で、ほとんどは倒れているだけ。
どこをつかんでも崩落が止まらない状態になってきて、
いよいよ体のストップが全く効かない状態で、
僕の体はいいようにゆっくりと落ちていく。
その体中に落ちている木の枝がまとわりついて
むき出しの腕や足を傷つけていきます。

そんな状態までになってもまだ僕は、
その下に下山道の続きがあると信じていましたが、
あるところまで落ちきって、
そこに重なりあった木を抜けて下にも進めない状態になってはじめて、
これが要するに何らかのものが崩落した現場だと気づきました。
そしてようやく、絶対にこれは道の続きではないとわかりました。

やばい。

上を見ると元いた場所からは相当下まで落ちています。
下には絶対に進めないし、進んでもさらなるドツボなのは明らかです。
しかし多くの木切れに囲まれた状態になっていて、
もはや身動きすら自由に取れない。
上に登ろうと試みれば、手をかけるものすべてが崩落してさらに体は落ちていく。
もちろん体力はすでに限界を越えています。
無理な態勢で落ちてきたせいで、いろんな場所も怪我しているようで足が痛い。
時間は午後五時を過ぎている。
もちろん朝からこの山域には誰もいない。

遭難…

その言葉が一瞬よぎりました。
一瞬よぎったっていうか、
現に明らかな遭難でした。

登山歴三十年近くにして、初めての遭難でした。

   つづく


at 01:24, 松村武, -

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