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カムストック第六十五談「うさぎの審判」

 あけましておめでとうございます。

昨年は20周年ということで、
盛りだくさんすぎるカムカムにお付き合いいただきまして、
まことにありがとうございました。

「WATER FRONT SAGA」三部作は
おかげさまで、どれも大盛況でして、
劇団員一同、節目の一年をとてもいい気分で過ごさせていただきました。
ひとえに劇場に足を運んでくださった皆様のおかげです。

お客様あっての劇団であり、作品であること、
もう一度かみしめることとなった一年でもありました。
この気持ちを忘れることなく、
これからも全力で芝居作りに励んでいきたいと思います。

さて、21年目の正月は珍しく紅白などがっつり見ながら迎えました。
そして今終わりましたので、
自分で勝手にカムストック恒例としている、
年頭にあたって、
干支にちなんでエッセイというのにとりかかろうと思います。

兎ですね。

「兎に角」
って字はなんで兎が登場するのだろうと思って調べたら、
当て字だそうです。
広がらねぇ・・・

しかし
「とにかく」って言葉はよく使いますね。
あと似たようなニュアンスで、
「とりあえず」っていうのも死ぬ程使います。
あ、また俺「とりあえず」って言ってる!
なんてよく客観的に思ったりしてます。

〜「とにかく・とりあえず」やってみてから〜

これ演出としての口癖かもしれません。

告白しますと、
やってみないとわからないことばかりなんです。
あらかじめほとんどのことはわからないんです。
やってみないと自分が何をやりたいのかもわからない。

それがやってみるとわかることが多々ある。

演劇の極意ってそういうところにあるのではないでしょうか。
なんて開き直ったりしてます。

うちの稽古のはじまりは、
「とにかく」やってみて
からです。

「とにかく」やってみないと、
どういう芝居にしていいのかさっぱりわかりません。

これがしっかりしたプロデュース公演とかになってくると、
それでは通用しない。
あらかじめプランというものを、ある程度しっかりもっておかないといけません。
そして初めっから説明できないと演出家ではありません。
「とにかく」やってみてから考えるなんていう考え方では常識的には甘いんです。

だから僕は
「とにかく・とりあえず」
って言いながら進行していける劇団芝居を大切に思うんです。

だって
やってみなくてもわかることをやるのが小演劇ではないでしょう。
やってみないとわからないところへ踏み出すのが小演劇でしょう。
そのための稽古でしょう。

なんていまだに青臭いものですから、
ちゃんとした公演での稽古前スタッフミーティングとかが大の苦手です。
口八丁でいい加減にごまかしますが、
そのごまかしに後々自分が縛られたりする。

僕がやりたい芝居は、
たかが僕一人の頭の中で事前に構成できるような、
そんな単純なものではない!
・・・なんて勝手なことはなかなか言えませんから。

でも役者としてのみ参加してると、
稽古始めに細かいプラン決めてる演出家って
僕は苦手ですけどね。




なんか
「とにかく」話は愚痴になるな。




兎と関係ないんだし。



もっと兎に迫りましょう。



兎っていうのは僕の中では、

試し、導く者

っていうイメージなんですね。

なんか、試験官、審判みたいな、

厳格なジャッジをくだし、勝利あるいは敗北へと導く者。


導く者として
誰もが思い浮かぶのは、
不思議の国のアリスですかね。
兎はアリスを不思議の国へ導く者です。

今細かいストーリーを思い出せませんが・・・


試しっていう部分では、
今ちょうど故郷郡山の市民劇団で取り組んでいる

「古事記」

その中に出てくる
「稲羽の素兎(しろうさぎ)」
ですね。

まあ「稲羽の素兎」も
表立って人を試しているというわけではないんでしょうが、
結果的に試しているように思えます。

主人公オオナムチが、ある姫に恋焦がれてアタックしにいく最中、
サメをだまして海を渡り、
逆襲されて皮を剥がれて泣いている兎を助けます。

その結果として、
兎はオオナムチが姫の心を射止めるだろうと予言して、その通りになる
同じ兎に嘘をつき、ひどい仕打ちをしたオオナムチの兄達は姫を得ることはできない。

「古事記」というのは、ほぼ現実にあった状況を基にしたメタファーの集積ですから、
これはおそらく、姫サイドの勢力が一芝居打って、
オオナムチを試し、姫の相手にしてよいと判定した。
そして自分たちの国へ導いた話といってもおかしくないかと思います。

「古事記」ではこの後、
スサノオの姫に恋したオオナムチが、
スサノオに試されて、
野原で炎に囲まれたとき、
一匹のネズミがオオナムチを地中の穴に導き、
彼は炎の原から生還するというエピソードがあります。

僕は最近までこれも兎だと思い込んでいて、
それと不思議の国のアリスがごっちゃになっていたようです。

ちなみに昔やった二十四時間芝居「鈴木の大地」の二十話は、
炎の森で兎に試され、主人公亜久里が死の国へ導かれる話でした。
その時プリタが兎の役をやっていました。
ほとんどセリフもなく、バニー姿で炎の中を跳んでいる。
その兎についていくと燃え盛る炎から出られるのです。

自分引用なんてしてもしょうがないんですが、
今書いてること芝居にしたんだよなって懐かしく思い出して、
それってイメージ「古事記」からだったんだと感心しまして。


あと、
デビッドリンチのわりと新らしめの映画で、
「インランドエンパイア」
という、リンチマニアは大喝采、
それ以外の人には複雑すぎて???な作品があります。
僕はもちろんマニア側なので大喝采だったんですが。
これって面白いんですけど、本当に詳細説明不可能です。

かいつまんで言うと、
女優が映画撮ってて、
その女優のプライベートの物語と
映画の中の女優が演じる役の物語と、
その役のモデルになった実在の女性の物語と、
・・・といった重層的な構造が、
それだけでもややこしいのに、
なぜか不思議とまじりあうという、
もはや何がわからないかということもわからない状態に陥る作品で、

一体なんでこの作品の話になっているかというと、
ここに象徴的に兎が出てくるんです。

正確に言うと
兎の頭部の着ぐるみをかぶった人達ですね。

なんかそのシーンはTVショーなんですけど、
不気味で意味深なんです。
笑い屋の声にかぶせて、ずっとリンチ特有の重低音が流れていて、
全体の物語のキーになるような会話が行われる。
まったく意味はわからないんですが、
それがキーになることだけはわかるんです。

そこでも兎はジャッジを下し、導く者に見えます。

物語のひとまわり外にいて、
中にいる者たちを裁き、
認められたものだけを、
次のステージに導く者。

あるいは、
観客の視線にジャッジを下し、
すなわち、
理解する者にしか理解できない符号のような言葉を発して、
その視線の中のいくつかをその符号で選抜し、
そして物語の深層へ導く者。


「かちかち山」
という誰もが知ってる昔話にも兎が登場しますが、
この兎も妙な登場の仕方をするんです。

老夫婦に捕まえられたタヌキは、
口八丁で一人になったおばあさんをだまして縄を解かせ、
すかさずおばあさんを食ってしまった上に、
おばあさんに化けて、帰ってきたおじいさんを驚かせるという、
愉快残虐犯のような凶行をした挙句に逃げるんですが、
その現場へ突然兎が現れ、
おじいさんにタヌキをこらしめることを約束する。

いわゆる「かちかち山」のお話は、
その後の兎によるタヌキ追いつめ談なんです。
ここで何が妙かというと、
兎とおじいさんおばあさんの関係は何も触れられない。
兎がなぜ仇をとるのかわからないんです。
かといって、悪を懲らしめる正義の味方のような存在でもない。
なぜなら兎によるタヌキの制裁は、
背中に火をつける、泥船で溺れ死にさせる、
など正義の度を越しており、
最終的にこの話はタヌキが哀れにさえ思えてくる。
ここに出てくる兎を形容するなら、

まさに厳格な審判としか言いようがないんです。

そしてこの厳格な審判ってものに付随するイメージとして

何らかのルールをもつ上部組織の手先っていう感触もついて回ります。




兎と言うと、
さみしいと死ぬ
っていう側面だけがやけに独り歩きしてる感があって、
人はまずそのことを言いますよね。

でもそれって何か怪しいんですよね。

僕もそう言いながら
「ダルマ」の中で、
さみしいと言いながら死んでいく月の兎を登場させましたが…
まああれはあくまで月の兎ですから、
その存在は月に支配される別物です。


兎に角、

やっぱり怪しい。

本当にさみしいと死ぬのだろうか?

何かそれは妙な兎の巧妙な罠のような気がする。

兎はそうやって何かを試しているのではないでしょうか?

何かの手先となって・・・


猜疑心の猜の字はなぜか兎を連想させやしないか・・・






2011年。

20年目の祝祭の年を経て、

21年目のカムカムはまず、

その忘れえぬ余韻とともに、

外見はほのぼのと可愛く、清潔な兎のような、

幸福な時間に迎えられるかもしれない。


だが油断してはならない。

それは罠であり、秘密試験である。

奴らの恐ろしく血走った目を見逃すな。



兎は僕らを試し、

何かをジャッジする。

僕らをどこかの場所へ導くべきか否かを厳正に見極め、

僕らはここにとどまるか、導かれるまま、次の舞台へ進むのかの瀬戸際に立たされる。



そしてその兎は、

何らかの手先である。

その何らかにたどり着くことこそ、

我々の究極目標ではないか?

と飛躍してみる。



兎と亀の亀だって、きっと一芝居打った兎にジャッジされたのだ。

そして勝利へと導かれた。





そんな兎あれこれでした。




つまり、2011年は、

ジャッジの目をいつもより十倍気にしながら、

慎重に、正確に、さぼらず、逃げず、あきらめず、

やれることをやれるだけやります。



今年もよろしくお願いします。


                                                                    2011.1.1






































































































at 00:31, 松村武, -

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