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カムストック第六十談 「B級について、ちょっと理屈っぽく考える」

まもなく「LITTLE SHOP OF HORRORS」の幕開けです。
とてつもなく面白い作品です。

もう何十年も前に作られた名作中の名作ミュージカルなんですが、
そもそもが他の映画のセットを借用して作ったB級ホラー映画をもとに、
オフブロードウェイでミュージカルとして再構築したら、
大当たりだったという経緯があります。

そういう流れもあってのノリだからでしょうか、
個人的には小劇場演劇の匂いがプンプンしてて、
翻訳もので、本格ミュージカルで、プロデュース公演にもかかわらず、
異種格闘技な感じがしません。

もう日本でも何回も上演されているこの作品を今回演出するにあたって、
どういう風に作っていくつもりかという質問を何度も受けたのですが、
その都度、僕は“B級に”という言葉を繰り返してました。

そのやりとりの中で、僕はこの、
“B級”という、
実は、特に定義も尺度もはっきりしてない、
とても漠然として曖昧な言葉について、
否応なく他人に説明しなければいけない機会が増えまして、
“B級”について何度も考えるうちに、
この“B級”という言葉の中に、
二十年間我々がカムカムミニキーナで大事にしてきたニュアンスが、
凝縮されているのかもしれないなと思い至りました。

もちろんA級あってのB級です。
万事に渡って最もクオリティの高いA級の存在がまず頑としてある。
その上で、諸事情によってそこまでのクオリティが達成できない状況の、
一つの言い訳、そして開き直りがB級です。

ですから、B級は一ランクレベルが落ちたもののはずです。

A級がプロフェッショナルなのであれば、
B級はセミプロ。

A級は目指されるものであり、
B級は目指すもの。

すなわち、
A級がイデアであり、
B級はその影である。

ところが、

そんなものはまやかしであるという、ポストモダンの時代がやってきたわけです。
何がA級かなんてものは相対的なことでしかない。
ある者にとってのA級は、あるものにとってはB級である。
ランクなんてものはアテにならない。
つまり、人それぞれだ…という時代。

そうなるともはやA級に届かないものがB級なのではありません。
そこに至ってA級という響きは、祭り上げられた傀儡の王子のようにもなりました。
時にそれは、皮肉の対象ともなり、
羨望のまなざしと嘲笑の囁きを同時に発生させるような微妙な存在となりました。

ここに至って、

“あえてB級”

という態度が出現するわけです。

そこには、ABCDのランク付けで推し量る価値観に変わって台頭する、

“態度のかっこよさ”

という価値観が幅を利かしています。

“あえてB級”という態度の中には、

高尚で狭い世界にどんどん限定されていくランキング・ピラミッド構造、
大衆の触感から遠ざかっていく貴族主義、

そういった、
もはや皮肉の対象にしかならない類のA級の色彩に対して、
あえてその懐に潜り込んで、
風下のB級という立ち位置に立ち、
そこからA級の持つ退屈さを、シニカルに内部告発するという、
まるでトロイの木馬のような、周到な作戦が存在します。

つまりB級テイストの正体とは、巧妙なA級破壊ゲリラだったのです。

元来、小劇場とはB級なものではなかったでしょうか。

確かにそこにはA級なものに状況的に届かないものが開き直って、
B級を名乗り出したという面も少しはあったのかもしれません。

しかし根本的には、
既存のA級演劇というものに対して、
ついていけないからB級なものを始めたのではなくて、
既存のA級演劇に作品的な力を感じなくなった人々が、
それでも資金力、技術力など現実的な力は依然として維持するそれらの勢力に対して、
あえてB級という立ち位置をとって、
価値観をランキングから態度の問題にすりかえ、
アイロニー的に拮抗しようとしたゲリラ作戦だったのだと思います。

現実に“B級”を名前にとりこんだ劇団はいくつもあります。
それは小劇場の生命線ともいえるキーワードですから。
(今の若い劇団は絶対そんなキーワードを入れないでしょう)

わがカムカムミニキーナもそんなうねりの一端で旗揚げされた小劇団の一つでした。

ところが、
その後どういうことが日本に起こったのか。

まずA級演劇という概念が、ある時点でかなり崩壊したと思います。
トロイの木馬作戦は、ある意味、成功したのです。
B級ゲリラとその、斜に構えた価値観が演劇状況に浸食し、
かつてA級演劇が持っていた現実的な力をも手に入れた。

ところが、
ゲリラ軍は次にA級演劇が担っていたことをしなくてはいけなくなるのです。
演劇と言うジャンルが担っていた社会的、現実的なポジションを、
今度はゲリラ側がニューA級演劇として担わなければならない。
ここには、責任という問題が発生してます。
これは民主党の政権奪取とそっくりなことです。
そういうことは現実的にあまり考えてこなかった、
夢見がちな人達にとって、
そこは新しい出発点でした。

そんなこんなで長い混乱が始まったと。

例えば、劇団という制度を考えてみます。
現在長く続いている劇団を見ると、
座付きの作家、演出家が何人かいて、あるいは外部から招聘して、
かわるがわるいろんな作品を上演し、
役者は新しいメンバーが、随時制度的に補充されていく。
こういう劇団は、そのはじまりは違ったのかもしれなくても、
今では現実状況に即し、大人のA級演劇を担う態勢をとった集団として、
劇団というものを定義した集団だと言えると思います。

一方で、作家・演出家は一人で、
俳優も基本的にはほとんど入れ替えがない(あってもイレギュラー)という、
まあ、いわゆる小劇場世代はほとんどそうだと思うんですが、
そういう劇団というものは、やはりB級な陣形です。
その小規模精鋭の攻撃的な陣形の中で、独自の動きを育んでいく。

それはまさに奇計なのです。

局地的な作戦においては、奇計は絶大な効果を発揮する。
ある一時代の波に乗った劇団を考えてみてください。
ところが、奇計というものは先読みされるようになるまでの寿命しかありません。
見事に隠された落とし穴も、三度も続けば、さすがに警戒される。

それに、よしんば奇計で天下を掌握したとしても、
その先にある継続した統治が、この陣形のままではできない。

三国志の曹操やら、豊臣秀吉、徳川家康やらを見ても、
天下統一の戦を重ねている際の家臣の顔ぶれと、
天下を掌握してから統治に移行していく際の家臣の顔触れはガラリと変わります。

B級演劇という態度の難しい点はここに発生してます。
そしてここにおいて解散するという道を選択する劇団も多い。
劇団の使命を終えたと。
これからの時代はもう戦ではないという論法。
そうして散っていった武士達が、
その経験を生かして、さらに学問を学んで社会秩序の役に立つみたいな。
昨今のテレビ、映画に出てくる演劇畑の人を見て、
そんな流れを実感します。

例外もあります。
新感線みたいな。

この人達はB級のまま天下をとって、そのままの価値観で天下に君臨した。
決していわゆるA級なものにスライドすることなく。
それは実は、小劇場よりずっと先にあった、
大衆商業演劇というB級大地帯をうまく併合したという戦略の勝利だろうと。

一方で、今若い劇団が揃って選択する演技法、表現法、
その支柱とも言うべき、アゴラ系な考え方は、
僕にとっては、もう、昔ながらの小劇場ではないように思えます。
新たなA級の演劇を確立しようとするその動きは、
戦ではなく、統治の方法論。
社会における演劇というポジションを、
何年も先までの継続も見越して考えた、
それはすなわち、制度設計です。
だがあくまで制度設計であるがゆえに、
現実の制度欠陥への即応性が弱いような気もします。

例えば昨今全盛の、
動員できる著名人を核に据えて量産される、ジャンル的には幅の広い演劇…
それが結果的に一番客を呼ぶ形であるという現実…
(演劇にとって客を呼ぶということの価値観は軽視できません)

に対して、まるで我関せずと、
その現実は制度設計に組み込まれていないように感じます。
がゆえに、A級なのでしょうが、
その高尚におさまったかに見える鎖国論法を見て、
かつてのA級が崩壊したシーンの繰り返しを感じる人も少なくないのではと思います。

そういう意味で、新感線というところは、実に巧妙に、努力をして動員とクオリティのバランスをとっていると思います。

しかし、B級とは所詮、瞬間瞬間、一点の戦い方にすぎなくて、
そこに時間、空間の広がりが必要な統治の概念はありません。
継続性や演劇の社会性という観点、演劇はどうあるべきか?
という観点からすると、
それはアゴラ系、そして、
それに続く今演劇を志す若い人がとるA級への道は、
圧倒的に理にかなっており、
この二つのせめぎあいには、そう簡単な答えなどないのではないかと思います。

でも皮肉なことに、ここにかろうじて、
小演劇の世界におけるA級とB級の相克が成立しているわけです。
かろうじて、ダイナミズムがある。
それは小劇場最後のエネルギー源かもしれません。

劇団というものの存続を考えるとき、
このA級B級ということに、しっかり向き合わないといけないと思ってます。

A級という価値観をとるなら、
劇団という制度はあまり意味がないかもしれません。
それは、あくまで何らかの上位システムに付随する下部組織、
いわゆる養成所的、研究所、実験所的な役割を担います。
であるのなら、彼らは様々なことを制度的に確立するという目標を前提に持ちます。
これはもう、僕らが言ってきた意味での劇団ではありません。

劇団であり続けるということは、
B級という戦略への自覚が必要なことではないか。

というのが僕の考え方です。

さあ、ここまで演劇の話をしてきたわけですが、
ここに起こったことは、何も演劇だけに起こった特殊事情ではありません。
社会全体が、このようなA級とB級のせめぎあいの中におり、
今、かろうじて、本当にかろうじて、
クオリティとアイロニーのダイナミズムが維持されているけれども、
崩壊寸前ということに間違いはない。

クオリティは崩壊し、アイロニーは標的を失って茫然自失。
B級が制圧した世の中は、そのかっこいい態度を正しく作動させるための、
A級の再確立に向けて右往左往しています。

…なんていうような分析はここ十年くらいにわたって、
散々、様々な分野でなされてきたことですが、
なかなかわかっててもできない。
理詰めの問題点がはっきりしていても、
それを行動や作品に置き換えて行くことは、
非常に難しいことです。

少し話はそれるかもしれませんが、
最近読んだ新聞で、
新党乱立についていろんな論客の人の発言が載っている中に、
90年代の政治改革時代、日本新党とかさきがけの頃の新党乱立と、
今回の新党乱立は根本的な原因が違っていて、
以前は、それは政治腐敗であって、
今回は、政治劣化だと言う意見がありました。

腐敗と劣化。
似て非なるものです。
もちろん劣化の方が深刻です。

A級B級の倒錯したせめぎあいは、
いろんなところで確実に劣化を生んでいる。
それは簡単に言ってしまうと、
すべての物事の単なるB級化ってことです。

B級が態度や戦略の問題ではなく、
世の中はただ、元のランキング価値の世界にまた戻っただけで、
そのA級的ランキング価値観の中における、
ランクBにまで、あらゆる分野が劣化してただ落ちこんできているだけだと。

それは幻想であって、
そう単純な問題ではないと思います。
劣化というからには、劣化してない状態というものが前提として想定されていて、
しかし現実にその状態はもはや存在しないので、
劣化という言葉で片付けるのはどうかと思いますが、

この言葉がやけに骨身に応えることは確かです。

我々は全体的に劣化していってるのでしょうか?

あるいは、
世の中は特に徐々に発展するわけではなく、
そりゃあ、逆に徐々に劣っていくこともあるだろう、
そういうもんだ、
って開き直っていればいいのでしょうか?

それは無理です。
自分や自分の周りが否応なく劣化していってるという認識に、
そうそう平然としてられるものではありません。

さて、僕はこの文章を、一体何を書こうとして始めたのかと振り返りますと、
個人的に一番好きな現代作家である、
阿部和重の新作「ピストルズ」
と言う作品が、相当に面白いと思って、
それについて書こうと思ったんでした。

この作家は、重厚かつ正確なB級目線を持っている気がします。
B級の視線でしか目に入らない、社会のB級陰部を可視化するとでもいいましょうか。
実はその存在が核となって成立しているB級世界とA級世界の相克、
その限界、可能性をとてもよく書ける人と申しますか、
特にこの「ピストルズ」は、
そういう視線がどこへ行き着き、
それがどのような形で具体的に作品に帰結するのか。
とにかく今までにない作品を生み出したことは確実でしょう。
現代日本でこんな作品が成立するのかと、とても新鮮でした。
そしてとんでもなく複雑に錯綜した時代に生きていることを実感しました。
全くレベルは違って恐縮ですが、
同じ作品を書くものとして、
おいそれとは書けない現代の難しさと、
今だから書かれるべき作品の可能性について、
いろんなことを考えました。

直後に読んだ大御所の大ベストセラー「1Q84 掘
と比べて、

全く時代の劣化を感じないどころか、
「ピストルズ」
みたいなのを読むと、
村上春樹がもはや何年も前の古典にすら思えました。

めちゃめちゃ分厚い本ですが、
おすすめします。

ちなみに
「LITTLE SHOP OF HORRORS」
はアメリカから日本へ渡り、そして何回も上演されるという経緯を経ていますが、
今回の作品に関しては一切劣化してません。

今、皆さんの前に出す意味のある、
B級作品に仕上がっています。
このB級ゲリラによって、お客様の中にある何かを壊したいと思ってます。
ぜひ見てください!

at 10:24, 松村武, -

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