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第五十六談 「象の話」

 

 創立二十周年が近づいてきまして、イベントなどの日程も続々と具体化してきております。来月のイベントは旗揚げ以来約五十作あまりにのぼるカムカムミニキーナ作品を映像で振り返ろうというものでして、そのために押入れをひっくり返して二十年前の資料映像を掘り出しては、DVDにダビングする日々が、もう半月以上続いております。旗揚げ当初は事務所も倉庫もない時代ですから、その頃の資料というのは半分くらい僕のうちに眠っているわけです。ダビングしながらチラチラと昔懐かしい映像に見入ってしまうことも多いです。

 

 やはり時代を感じます。こうしてあらためて月日の流れを続けて振り返ってみると、メソッドといいますかフォーマットといいますか、我々役者や演出の技量の未熟もさることながら、当時うけたギャグであるとか、演技体であるとか台本の文体であるとか、つまりはその時タイムリーなお客さんの層に受けいれられる要素、そういうものがわずか二十年の間に根本的な変化を遂げていくということです。これはかつて一世を風靡した第三舞台や夢の遊眠社の作品を今映像で見ても強く感じられることです。ライブは生モノとよく言いますが、生モノはやはり、すぐ腐るのです。ですから劇団という概念を持続させていくためには、不断の更新が不可欠なのだと痛感させられます。不断の更新の名の下に、最も更新されるものは劇団員です。この二十年の間に何と多くの役者たちが、この劇団を通り過ぎていったことか。そしてその多くの人の消息は知れません。劇団は生き物であるということです。

 

さて、この不断の更新こそが生命という現象そのものであるという、生物学者の福岡伸一先生の著作はとても衝撃的で面白い本ばかりなので、ぜひ一読をおすすめします。有名な先生なので聞いたことある人も多いかと思います。この福岡先生が共訳として参加しているライアル・ワトソンという、これまた著名な生物学者の先生らしいですが、この人が書いた「エレファントム」という象についての本は、まさに最高の一冊と評して問題ない名作で、何度も何度も読みたくなるという、読書フェチの僕でもなかなかない経験を与えてくれる素晴らしい一冊です。

 

「エレファント」は象。「ファントム」は幻影みたいな意味です。合わせて「エレファントム」とは「象の幻影」。南アフリカに生まれ育った著者は、子供の頃にケープ海岸の岬で海を見つめる白い象を目撃し、その衝撃から象の研究者への道を歩み、その半生の中で何度も様々な象に出会い、様々な不思議な体験に遭遇します。この本はその作者の半生をドキュメントで追いながら、人間の想像を超える象の不思議な力、そしてかつて見た白い象の幻影が、本物だったのか、夢だったのかを遺伝生物学的に類推する驚くべき仮説を提唱します。

 

 何でここで象の話をいきなり持ち出したのかというと、ひょっとするとあまり認識されてないかもしれませんが、カムカムミニキーナのシンボルマークが歩く象だからです。

 

どうして象がシンボルマークになったのか。その経緯はあまりよく覚えてません。はっきりしているのはそれほど明確な理由があったわけではないということで、とにかく旗揚げに際して何かシンボリックなマークが欲しいという話になって、最終的に僕が象がいいと言いだしたのか、旗揚げのチラシをデザインしてくれた僕と八嶋の同級生が出してきてくれた案なのか、今ではさだかではないんですが、とにもかくにも、他に何種類か候補があった(なかったかもしれない…)中でこの歩く象のシルエットを僕らはいたく気に入って、理由なく決めたてしまったのです。

 

象に決まってから後づけでいろいろと理由を考えたものでした。人はマークの由来を聞きたがる動物です。ものごとには必ず由来があるということを疑いもしない。このマークに関しては由来なんてものはないんです。世の中には由来がないこともいっぱいある。ただどういうわけか、そうなったってことです。もうちょっと言うとそれがよいと思ったから、それであるべきだと思ったからそうなったという、少し前向きで運命的な事態です。

 

そう。後付けの理由の話でした。

 

「僕らは性急に走らず、ゆっくり、じっくりと着実な一歩を重ねていきたい」

 

みたいな立派なことをうまいこと言ったりもしました。

 

 「ハナ(華)が長い」

 

としゃれてみたりもしてました。

 

すべて後付けです。

 

象がいいと思ったから象になったのです。

象であるべきだと思ったから象になったのです。

 

それ以来、今の今まで、うちのマークは象以外には考えられません。

 

まさにそうなるべくしてなるということが時に起こるのです。

 

 その本によると、象っていうのは、人には聞き取れない低周波を使って、お互いに会話をしてるらしいです。科学的に実証されている事実です。低周波は物が壁にならないので、何十キロ離れていてもその言葉が相手に届きます。なので象はものすごく距離が離れている状態で連絡を取り合って群れを維持し、一様の行動をとるらしいです。大陸規模の距離で何箇所かに離れていた象の群れ同士が、何日も歩き続けた末に、ある場所で落ち合うということができるのです。低周波だけでなくて、象は大地を踏みしめる足音、かすかな震動でも互いに連絡をとっているようです。ですから例えばある一つの森で象が人に撃ち殺された場合、少なくともその情報は瞬時にその森すべての象に伝わるそうです。もしかしたらその森だけではありません、すべての象にその情報が伝わる可能性すらあります。まるでネット社会です。

 

 ただ人の使うネットと少し違うのは、伝わるものが言葉による情報というよりも、もっと感情の塊に近いものだということです。先の例で言えば、撃ち殺された象の悲しみと怒りの塊みたいなものが一瞬にして他の象という象に共有される。

 

 僕は劇団、特に小劇団、ことに二十年も続いてしまう小劇団という集団が何であるかということに今後ともこだわり続けていくつもりで、日々そのことを考えるのですが、これは現代の人間の社会で言うとなかなか他に例を見ないような集団の在り方ですが、このような象の群れの話を聞くと、何かそこに劇団というものの在り様のヒントのようなものが隠されているような気がしてきます。

 

 もうひとつの象の不思議に、彼らは群れで記憶を共有しているのではないかという点があります。それは低周波などによる空間的距離を超えた記憶の共有だけにとどまらず、ここが人の想像を超えるところなんですが、すでに死んだすべての仲間の記憶、つまり時間的距離をも超えて、あるいは進化の起源にまで遡るすべての象の記憶を多かれ少なかれ共有しているのではないかと。ちなみに象は死んだ仲間に対する態度がほかの動物とは格段に異なっていて、簡単に言うとものすごく個体の死を重く受け取るのです。象の墓場という伝説があります。象の数に比して、象の死体が一向に見当たらないので、象は死期を悟ると象以外の誰にも知られてない墓場へ向かうんだと。このことの真実性は微妙なようですが、象が想像以上に手厚く仲間を葬ることは事実で、死体の骨を仲間で回したり、サークル状に並べたりする、まるで葬式のような行為をとるそうです。つまり象にとって他人の死は人間ほど他人の死ではないようなんです。

 

 ここで言う時間を超えた記憶の共有とは、言葉を持つ人間が書物として記録をすることで記憶を共有するのとはワケが違います。ワケが違うと言いつつ、これは人間にも少なからずある能力。つまりは遺伝子の記憶です。私達にも太古の記憶、海にいた頃の記憶や、暗闇を恐れる記憶が遺伝子に刻み込まれていて、先天的に継がれていくという話は聞いたことがありますよね。つまり象はその遺伝子の記憶を人よりはよほど明確に受け継いでいるのではないかという話です。何万年前に生きた巨大なマンモスの記憶を、今を生きる象が受け継いでいる。しかもこの本では、それら象の群れの感応の力はともすると、何らかの理由で神経が鋭敏な状態の人間に、かつていた太古の象の幻影を見させることができるのではないかというところまで推理が進みます。

 

 さて、この時間を共有して受け継いでいく群れというイメージもまた、僕的には劇団というものと重なるのです。我々が共有しているものは何よりも時間(しかも入れ替わり立ち替わりしてきた構成員によってまるで複雑なリレーのように受け継がれてきた時間・遺伝子の記憶)であり、この時間が結果として形作る、象の低周波のような、この集団の外の人には感知できない何かの匂いのようなものであり、そしてこの集団以外の人に群れとして感応させるモノの中身とは、すなわち、うちの劇団で言えば、この二十年という時間そのものであるような気がします。

 

 ちょっと気持ち悪いですか?でも、これは根本的にいわゆる宗教団体とか、営利集団とは違う構造だと思いませんか?ムラ?近いけれどもやや違う気がする。そのつながりの大事な部分は、例えば信仰であるとか目的であるとか土地であるとか、それほどはっきりとした原因を持たない。血でつながる家族でもない。逆にそこにある要素は運命だけなのです。言い換えれば偶然。であるならば、劇団というのは、族というよりは「種」なのではないかと。個としての象が他の個の象と接する術は象以外にとっては謎であり、彼らはあくまで、個ではなく象という種として、象以外と接するのです。

 

 何だか大袈裟な話になってきました。いつものいい加減な感じです。このまま載せます。

 

しかし話はこのくらいで打ち切ります。

興味を持った方は、ぜひ「エレファントム」を読むことをおすすめします。

 

 最後に、「エレファントム」の中で最も素晴らしい情景の一端を。

 

 著者ワトソンが育った南アフリカの海岸沿いの森で、

 人間の虐殺、開発により絶滅に瀕し、

 ついにたった一頭になってしまった雌象が、

 ある時、崖の上からじっと海を見つめている姿を彼は目撃する。

 雌象は人間には何か空気や木々の微妙な震えに感じられる低周波の
 声で鳴いていて

 ワトソンは長年の経験からその鳴き声を感知することができる。

 

 すると象が見つめていた海から大きな雌のシロナガスクジラが現
 れ、
象のいる方向に潮を何度も吹いて答える。

 その季節にシロナガスクジラがその海域に現れることはまずない。

 クジラもまた象のように低周波で会話していることは科学的に報告  
 されている。

 

 森と海の空気が一つになって震えている。

 

 ワトソンはこう考える。

 

 陸上最大の母の呼びかけに

 海中最大の母が答えるためにやってきた。

 

 二人は孤独である。

 

 クジラは絶滅の危機に瀕している。

 信じがたいことだが、象もまた絶滅の危機に瀕している。

 あと何十年というレベルの話で。

 

 二人は孤独である。

 

 太古から続く記憶を

 その老いた母の巨大な背中にしょいながら、

 終わりゆく時間の悲しさを

 種の壁を超えて、

 森と海とで響かせ合っているのに違いない。

 

 

〜劇団がなくなることは、種がひとつ滅びるということに近い〜

〜劇団が続くということは、それだけで奇跡的なことだ〜

 

偉大なる象のマークのカムカムミニキーナを
今後ともよろしくお願いします。

 

at 04:13, 松村武, -

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