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カムストック第五十談 「牛にひかれて…」

皆様、あけましておめでとうございます。

昨年はまことにたくさんの方々にお世話になりました。

ざっと昨年の個人的な「戦歴」を振り返りますと、

「URASUJI供
「燻し銀河」
「第十七捕虜収容所」
「ダルマ」
「Yoosoro!」

とまさに例年にもれず芝居漬けの一年。
しかも多彩な場での様々なタイプの芝居を体験できた年でして、
今までカムカムとも僕個人とも全く交錯しなかったようなお客様との
新たな出会いがたくさんあったことが収穫の一年だったように思います。

御来場の皆さま、本当にありがとうございました。

そして今年2009年。
すでに2008年終盤より
僕は2009年のロケットスタートの前準備に明け暮れておりました。
そうです。
2009年上半期はのっけから飛ばします。

1月「URASUJI掘寵愛〜」

2月「名古屋テレピアホール SHOW劇革命参加作品『ゴリアテの首』」

2月「奈良県立図書情報館イベント『劇的☆めくるめく図書館』」

3月「えんぶゼミ松村クラス卒業公演『タイトル未定』」
そして

5月 カムカムミニキーナ公演アザラシ

規模は違えどすべて新作です!
というようなことでお楽しみに!
本年もカムカムミニキーナおよび松村武をどうかよろしくお願いしたします。

さて…

大変滞ってしまいましたこのカムストック。
実は今回で記念すべき?第五十談を迎えることになりました。
お正月と合わせてめでたい限りでございます。
別に合わせて滞らせていたわけではないんですが…

というわけで、
正月にかち合っちまった第五十談記念は、
特にこれまでのカムストックを振り返ったりもせず、
正月という要素を優先させて、

うし年の年頭にあたっての、
牛についての雑念を思いつくままに書き綴ってみようかと思います。

昨年の干支であるねずみと違いまして、
僕は牛が非常に好きです。

牛乳、
牛肉、
チーズ、
バター…つまり牛脂。

非常に好きです。

食だけでなくその闘志溢れる一面も好き。

闘牛…
猛牛…
猛牛打線…
マニエル!ブライアント!ローズ!
トレーバー!
バッファローマン…!
ロングホーントレイン!
テキサスロングホーン!
フィー!
カーフブランディング、子牛の焼印押し!

猛々しいだけでなく、のんびりしてるところもさらに大好きです。

牛歩…牛歩…牛歩…牛にひかれて善光寺参り

はっきりとは覚えてないんですが、
幼稚園だか小学生の頃に写生大会みたいなのがありまして、
牛の絵を描いたことがあります。

当時はまだ学校の近所に牛を飼ってる農家が残っていました。
どういう経緯か忘れましたが、
僕は牛と向かい合い、牛の絵を描きました。
そしてその絵が何かの賞をとったんですね。

後にも先にも賞などとは無縁の人間です。
そして知ってる人はよく知ってますが、
僕は信じられないくらい絵が下手です。

なのにその時だけ僕は絵で賞をいただいた。
何でかわかりません。

どんな絵だったかはっきりとは記憶にありません。
ただ、かなりシュールなものだった覚えがあります。
遠近感とかなく、リアルに描く意識ゼロの、
何だこれ?って感じで、
ぐんにゃりしていたような気がします。牛が。
そして体がねじ曲がっていたような。
恐れ多くもそれは
ピカソ的なものでした!
ピカソも見たことないのに!

何と自由な!ということで賞をもらえたんでしょう。

何でそんなに自由に描けたのかわかりません。
ちなみに僕は、
その自由を縛る緊張、自意識のようなものに人一倍覆われている人間です。
上手に上手にってすぐ思ってしまうんですね。
つまらないことに…

さてその絵が入賞したおかげで、
当時僕は非常にほめられました。
天才だという声もちらほらかかりました。
村の神童の誕生というわけです。

わずかなひととき、一瞬の絶頂期でした…

でもこのエピソードのせいで、
僕と牛との間には、何やら抜き差しならない関係性があるんですよね。

「緑の野原に一頭の白黒の乳牛がいて、
その体がずっと止まることなくうねり続けていて、
何というか、落ち着かない。
まるで牛としての実体は、いずれブレたままに消えてしまって、
緑の野原に、絞りつくされた白黒のカスだけが残るように思えて。

でもそれはそれで、
牛はどっしりとしてそこにいるんです。
牛ってどっしりとしてそこにいるでしょ?

何かそのうねり続けるものの正体は、
時間とかそういうものにリンクしている気がするわけです。
“落ち着かない”時間の揺らぎの中に、
それでもどっしりとその牛はいて…
そうか!時間の中にどっしりといるということのためには、
自分がいつも揺らぎ続けて、
とめどない流体となって、
目にもとまらぬ速さで、すばしこい変化の波をさばき続けていることが必要なのだ。

達人。

達牛。

そしてひとたび「moooooow」
という声が発せられるや、
あれだけ落ち着きのなかった時間のキャンバスが、
ぬるっとチーズみたいに凝固されて静止画になる。
時がゆるりと止まる。

時間が失速し、やがて消失するのです。

時間なんて概念だから、
考え方次第で、いくらでも消失する可能性はありますし…

いや、そうは言っても…
これは不思議なことではないか?

そう思ってもう一度よく見てみると、

緑の野原に一頭の白黒の乳牛がいて、
その体は時が止まったように微動だにしない。
だがモグモグと反芻を繰り返す口の動きで、
別に日常の何かが根本から覆ったわけではないことがわかる。

その背には男の子がちょこんと座っている。

………俺か?

その様が、何というか、非常に落ち着く…」

見たような見ていないような、夢のような類の話です。

このように牛は僕という人間と抜き差しならない関係にある獣でして、
結果として芝居の作品の中にも、何かとよく出てくることになります。

特に牛が活躍するうちの作品は、
「越前牛乳」
ですね。

カムカムの作劇の方法論を確立させた初期の重要な作品です。

ドナドナという名の牝牛が、生き別れになった我が子の代わりに
ハイジという人間の少女を育てて、ともに旅をする。
少女はやがて上越を支配する武将、上杉謙信を相手どり、
自らのアイデンティティをかけた対決を挑む。
その上杉謙信の天下統一を妨げる川中島のライバルは半人半牛のフリークス、ミノタウロス。
人と牛との「あいのこ」である彼こそがドナドナが生き別れになった息子。
上杉との戦に敗れたその獣人は、最後に母の肉を食って死に、
少女はその母牛の乳を飲んで生きる。

何でここで「越前牛乳」のあらすじを書こうと思ったのか謎ですが、
何か今このタイミングで「越前牛乳」のあらすじをあらためて書いてみた意味は、
予想外にありました…。

この作品を書いた当時は二十一、二のいきがった若造です。
当時僕は柄谷行人に相当かぶれていて、
まさにこの時期、片っぱしから読み漁っていた。

なのでこの作品のとっかかりは資本主義における「市場」。
そこで行われる命がけの「交換」、そこから派生する「固有性」「単独性」などなど。
柄谷キーワードが満載です。

そういう、いわば思想界好き学生にありがちな若い作品だと思っていました。
頭だけでこねくり回したところがあって、
何か頭でっかちな書生気分みたいなものがどうしてもあって、
それを単純に演出の仕方で裏かいてて目立たないようにしているだけの作品だと。
そこを再演重ねるたびにいつも改善しようとしてうまくいかない。
根本が心の深い所に根ざしていないから、しょうがないかと思ったり。
それでもそうであることが、むしろ重要なのかもしれないなとか疑ったり。
結果的に何回やっても自分でもすごい面白いし、お客さんにも喜んでもらえるので、
この「越前牛乳」の面白さは、投げ捨ててしまえない。
何でこれがいいんだろう?
っていう謎がずっとあったんですね。

ところがですね、
うし年の年頭にあたって、
このように「越前牛乳」のあらすじなんかをあらためて書いてみてるうちに、
これは全然「市場」云々とかから発生した話ではないのではないかと。

これは完全に「牛」の話です。
テーマは「牛」。
そのとっかかりも「牛」。
結論もメッセージも「牛」。

そう思った時にですね、
これが前述の写生大会の入賞した話につながるわけです。

僕と「牛」とは抜き差しならない関係にある。
その抜き差しならない関係の相手について、自分で初めて書いた作品なんです。

完全に無意識で。

ここまでかなりの年月を経て、
そしてうし年がやってきたから、
ようやく客観的に過去の自分を見れてるのかもしれません。

僕は「牛」を通じて、
時間の流れや、そこに付随するたとえば、
運命やら偶然やら、
そういうものの認識に関して、
大きなシフトチェンジを体験したのです。
そして今もそのチェンジングは進行している。
「牛」を通じて。
それが今日、うし年の元旦の閃きの真相であります。

ですから、そういう無意識下の根本的、本能的な衝動が、
作品という形で噴出するのに際して、
そこに「牛」を置くことでより円滑な営みになる。

「越前牛乳」とはそういう作品であったのではないかと。
だとすると頭でっかちなものとは真逆です。

そう言えば、今でも覚えていますが、
「越前牛乳」の初演は1993年の春でして、
その年の正月、
正確に言うと、まさにこの文章を今書いているのと同じ状況、
年末から年をまたいで新年へというブリッジな一年の節目。
僕はガルシア・マルケスの「百年の孤独」を初めて読みました。
今では考えられないくらいに暇な年末正月で、
あの細かい字の二段組みの長編を読むにはうってつけな時間がありました。
僕はマルケスにはまる前に、中上健二にはまってまして、
それも元をたどれば、柄谷行人から始まってます。
本当にミーハーな連鎖だけで広がっている読書体験ですけども、
やはりそこで読んだマルケスが鮮烈でして、
まあ本当に、寝食忘れて四日間くらいで一気に読みました。

「百年の孤独」によって、
僕にとっての、小説っていうものへの考え方が大きく変わりました。

マルケスの小説は、ざっくり言うと絵なんです。

すぐれた作品は絵のようなものです。
絵の具の代わりに文字を使うんです。
ビジュアルのことを言ってるのではありません。
文字を、すなわち意味を使って絵を描く。
論を競うわけではないのです。
ただ、言葉という音と意味を合わせ持つ道具を使って絵を描く。

目が覚めました。
やはり大学生なんて結局すぐに論に走ってしまう。
テーマとかいう禁句をすぐに言ってしまう。
それだけがすべてのようなことを思ってしまう。
ところがそう考えると、
僕が物語を書こうと思った動機の一番最初にある野田さんという人は、
まさに言葉という道具で絵を描いていた人であったじゃないかと。

そういうこともあらためてマルケスの作品の衝撃によって気づかされ、
いわば、脳内に革命が起こった状態で書いた、その第一作が
「越前牛乳」

なのに僕はずっと、それは確かに自分の中で革命的にいろいろ変わったけど、
やはり青臭い頭でっかちからは抜け出せなかった作品として、
なのに何か面白くて、原因がわからないなあと、
いろんな意味で課題であった作品だったんですが、

今この文章を書いてる中でようやく気付いたわけです。
自分で思ってた以上に自分に変化が起きていた。

あの「牛」の絵を、
そして夢とも判別つかぬ、その背に乗っかる少年の妄想。
それ自体を掘り起こしてきてたんですね、どういう風の吹きまわしだか。
これぞマルケスの凄味、
恐るべき小説の力だと思います。

「トラウマ」じゃありません。
この言葉は好きではありません。
だからそこは勘違いしてほしくない。
「トラウマ」ってことが作品に出てくると、
何もかも決定的な原因があるみたいな、
単純な推理小説みたいな話になる。
ああいう電車で読むような、まあミステリーがすごいとかで上位のヤツもそうだけど、
僕は推理小説がイマイチ好きになれないのはそこでしてですね、
正解と決定的な原因がはっきりと存在する世界のいびつさ、馬鹿馬鹿しさに対しての、
客観的なすいません視線がないものはつまらないなと思ってしまうんですよ。
推理小説は大きな戦争のあとに大流行して成長したジャンルなんです。
アガサクリスティも横溝正史もそう。
戦争があると理不尽な死が溢れる。
何でこんな風にこんな人が殺されなければいけないのか。
どう考えても納得のいく説明を誰もできないような死です。
神の存在を疑わざるをえないような死。
しかも大量に死ぬわけです。
無意味に。
それがごく普通なことなわけです。
そんな死ばかりが溢れた時代に、
人間一人が死んだという事実に対して、
本一冊分のこみいった理由を書くということ。
そうして死を、死というものの重みを取り戻すということ。
これが推理小説の誕生秘話だって話を聞いたことがあります。

さて、話がそれましたが、
今書いてることは、
「トラウマ」を掘り起こしたとか、そういう意味じゃないってことです。
うまく説明できないのですが…
たとえば人にはそれぞれの人生が通過してきた過程でざっくりと蓄積される、
イメージの集積みたいなものがあると思うんですね。
ところがそれは日々刻々と増大するばかりなので、いかに人間とは言え、
完全に蓄積することができない。

ガサツなひとり暮らしの男の部屋を想像してください。
あちこちにいろんなものが散乱していて足の踏み場もない。
何がどこにあるのかもわからないから、
じゃあいざ温泉行くって話になって、箱根のガイドブックを探そうとしても、
確かどこかにあったはずなんだけど、どこにあるかわからない。
お手上げです。

ところがこれを、ある程度整理整頓すれば、
モノが同じ量であっても、お手上げまでには至らない。
たとえば、箱根のガイドブックはどこにあるかわからないけど、
ガイドブックがだいたい同じ棚に固めて置いてあれば、
そこを探すという第二段階で、恐らくお目当てはみつかるわけです。
これが整理整頓ですね。

人が体験していく膨大なイメージの集積も、
頭の中でこういう風に整理整頓しながら保存されていくわけですよ、たぶん。
すると全部を覚えてなくてもいいわけです。それはどうせ無理なことだし。
箱根のガイドブックがどこかってことは考えなくて、
ガイドブックってものが固めて置いてある場所だけを漠然と覚えればいい。
もっとそれを拡大していって、旅に関するコーナーとか、
そんな風にどんどんカテゴリーを大きく分けていくと、
より検索が早くなるし、その分保存できる物理量も大きくなる。
パソコンのデータ保存なんてまさにこういう考え方ですよね。

ところがです。
そうやってカテゴリー分けして行った時に、
どこにもあてはまらないモノはどこへ行くのかということです。
それはいわばリストラされるわけですよ。
ゴミ箱へ。
その結果、なかったことになる。

となると、整理整頓で生じるカテゴリー化、単純化の繰り返しっていうのは、
ざっくりとした区分でしかないカテゴリータイトルに、
きれいに収まる方向へとだんだんと接近していくばかりで。すなわち薄まっていく。

カテゴリー分けのそのカテゴリーってものが物事の考え方を知らず単純に整理していくという運動が起こっているんです。

たとえば、ガイドブックっていう括りにしてしまうと、
例えば、そこに「宮中井戸ガイド」っていう本があったとする。
これは外見は中身は完全にガイドブックなんですが、
一点、 問題なのが、宮中井戸っていう土地が実在しない。
架空の町のガイドブックだというわけです。

そうなると、これはガイドブックではないので、ガイドブックの棚にはない。
でも小説でもないので、小説の棚にもない。

つまりなかなか見つからない。

そのうちに忘れ去られていく。

この本の存在そのものの記憶を持続させないと、
これは、なかったことになる危険性が非常に高い。

この宮中井戸ガイドという本の存在がなかったことになると、
同時に、
こんな架空の町のガイドブックを作ろうとした経緯が無に帰する。
それに携わった人達の歴史が消える。

それを手に入れた自分の経緯、それを読んで自分に起こった変化に対する自覚。
そんなものもすべて消えてしまう。

整理整頓とはそういう危険を伴う行為なのです。

そして、
言葉っていうのは整理整頓のための最たる道具でして、
人は何かを思い、表出する段階で必ず言葉にしますが、
言葉って言うのは、まさにざっくりとした棚なんです。

何かを思うって段階で、すでにざっくりとした棚である言葉で考えることしか僕らにはできないわけですが、しかしそれ以前の心が動くっていう前段階が必ず人にはあるわけでして、
そこで起こったことは正確には、無限に細分化されうる、液体のような状況です。
それを固体として取り分けて各棚(言葉)に割り振っていく段階で、いくつもの微妙な滴のようなカスが振り落とされていく。

そのカスのニュアンスはゴミ箱に行き、消去され、基本的にはなかったことになります。

ところが、パソコンのあらゆる痕跡が完全には消せないのと同じで、
人に起こったことは、根本的な領域ではなかったことになんてならないんです。
起こったことは起こった。
どれだけ忘れ去ろうとしても、
一度起こったことを、起こってないことにはできない。

ゴミ箱のゴミはどこかに痕跡として残るのです。
作家という職業が言葉を使って掘り起こそうとしているのは、
その整理整頓される前の、この身に起こったこと。
言葉になる前の何かを掘り起こすために、
言葉を駆使する。

そしてそこで初めて、
なぜ、物語というものがあるのか?
物語って何なのか?
ってことがおぼろげにだけど見えてくる。

明らかに話がよくわからなくなっていますね。
こういう風に論的に語っていくと、
いつまでも言葉を重ね続けるだけで、
到達できないものがある。
言葉そのものが客観視される状況を言葉で語るには、
やはり物語っていう方法が必要なのではないでしょうか。

僕には、
整理整頓の中で振り落とされていった、
あの絵の中の「牛」にひかれて、
まだまだ物語ってヤツを探っていける手ごたえがあります。

善光寺へ。
まさに牛の歩みで。


新作「アザラシ」には「牛」は出てきませんが、
それはやはり、うし年の2009年に見合った、
あの絵の中の「牛」の話になることでしょう。

at 11:16, 松村武, -

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