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カムストック第七十四談 「猿女」

皆様、あけましておめでとうなんて言う時期とっくに過ぎてますけど、
あけましておめでとうございます。
寒中お見舞い申し上げます。
今年は何だか年賀状も未だ返せてない。
珍しく年またぎの稽古や本番がないんですが、
逆にいろいろ入れてしまうわけですね。

あと、原稿の仕事が重なっております。
嬉しいことです。
何といっても昨年は文章の連載が増えました。

さてこういう感じから、例年の年頭コラムのように
昨年を徐々に振り返っていく流れに持っていきましょう。
毎年書いてますが、このコラム正月にしか更新できてません。
特にツイッターやフェイスブックやるようになってから、
なかなかね。
もう今年で閉じようかとも思っていたのですが、
数少ないこのコラムファンがいてくださって、
催促してくれましたので目覚めました。

連載の話から。
もう何年前からか忘れるくらい以前よりお世話になってる
「奈良新聞」
隔週金曜連載はタイトル
「赤い扉の向こう側」
何とこれは最新の回が百六十三回!
自分でも凄いです。
このカムストックですら七十四回です。
百六十三回よく書く事があったもんです。
そしてこれは全く読者の反応わからなくて、
たまに奈良の知り合いが読んだと言ってくれるくらいで、

一体誰が読んでいるのか?

と自信のない疑念を抱きながらの連載です。
しかしここまで続くということは、
読んでくださっているのでしょう。
感謝感激です。
そしてさらに続きます。
奈良新聞さん、ありがとう!
WEBでは出ないのが残念なのですが・・・
皆さん、奈良に行って奈良新聞を買うしかありません!
買ってください!

さて、これが唯一の演劇以外の書き仕事だったのが、
昨年、連載が二つも増えました。

一つは何と小説です。
「Tricksterage」
という雑誌に隔月連載。
これは一見イケメンたくさんの演劇雑誌に見えますが、
よくよく中身を見ると、
何というか大変野心的で盛り沢山な、
「THE・総合雑誌」です。

その野心的で盛り沢山な企画の一つに僕の小説を加えてもらっています。

「ガーデニング古事記」

というタイトルの小説は
まだ連載して三回目までしか行っておりません。
「古事記」を上演する市民劇団が舞台です。
どこかで聞いたような話ですね。
どこかで聞いたような演出家も出てきますね。
定年後の人生に迷う老夫婦の家族が神話とシンクロしながら
家の庭を世界に見立てて改造していきます。

書き出しは難しかったですが、
段々リズムがつかめてきました。
これからどんどん奇想天外になっていきます。
と言っても始まったばかり。
古事記で言うとまだ神様が現れてない状態です。
泥のような世界の船出。

「Tricksterage」はバックナンバーも
買えますのでぜひお買い求めください。

もう一つの連載は
「ならめがね」
という奈良を多角的に全国的に発信するとても洒落た雑誌です。
こちらは季刊ですが、

「色眼鏡」

というタイトルの長文エッセイ載せてもらってます。
こちらもまだ二回分。
結構町の本屋さんにも並んでいたりします。

連載の報告でした。

これだけ重なるだけでわりとヒーヒー状態です。
しかしまた芝居とは違った喜びがあります。

さて本業の芝居を振り返りましょう。

昨年も結局忙しい一年でした。

1月 URASUJI5「綱渡り」

URASUJIはやるたびパワーアップしていく気がします。
オープニング大奥のゲス乙女、ラッパ屋、俵木さんのモモクロは未だに耳につきます。
しかしこれが昨年だったとは信じがたい時間感覚ですね。

5月 「スワン・ダイブ」

え?五月まで飛ぶのか?
その間、何をしていたのだろうか、全く思い出せません。
25周年企画の第一弾。
取材旅行に行った初春の諏訪の冷たい空気感を思い出します。
久しぶりの本多。美しい装置でした。
綺麗なシーンいっぱい作れた気がします。
カムカムでしかやれない世界を25年の節目にしっかり出せたかなと。
このあたり、谷川健一の本読みあさり、鉄の歴史のことばかり考えてました。
鉄の古代史は本当に面白いのです。
そして軽んじられているのです。
鉄の存在が日本史を作っている。
この目線でいろんなものが違って見えてきます。
そして演劇的なんです。

6月 ラッパ屋「ポンコツ大学探検部」

絶対毎回見に行く憧れの劇団への出演。非常に楽しかったです。
しかも、めちゃめちゃおいしい役をいただきました。
早稲田の6号館を模したセットは早稲田青春時代を思い出させ、
探検部自体は山登りする自分にとっては、
これまた青春時代そのものです。
リュックや靴を自前で用意したのも思い出深いです。

7月 ナライブ「まなじり」

ナライブの招待枠でこの芝居の再演がかないました。
東京でやったのより盛り上がり凄く、大成功でした。

8月 義経与一弁慶静サミット「短縮版・郡山千本桜」

大きな歴史イベントでのオープニング。
この作品は大和郡山市の財産です。
またいずれやることになるでしょう。
でもやはり落語「七度狐」の部分をカットすると寂しいですね。

9月 「グレート・ネイチャー」

何とNEWS小山君主役で「大自然」リライトという、
まさか実現するまいと思っていたびっくり企画が実現です。
カムカムも見たことない大半の人にとって、
全編アドリブのような独特の作品世界は、
どう映るんだろうと内心恐れていましたが、
毎日当日券の列に何百人も並んでくれて大盛況。
少ない稽古時間であそこまでできる出演陣も大したもんでした。

11月 「>(ダイナリィ)」

25周年第二弾。
今までの劇団の芝居で一番の出来だと思います。
お客さんの反応が違った。
いつも、おもしろいと言ってくれる人の
「おもしろい」のニュアンスが違った。
作る過程も半端なく、
ギリギリの空気で出来上がったサバイバル的作品です。
多分にサバイバーな清水宏さんの存在のおかげだと思います。
その影響でみんな変わりました。
もう一歩踏み込めるようになりました。
これでカムカムはもう一つ上のクラスに挑戦する劇団にならねばと思いました。
同時にこれからが問われると気を引き締めました。

12月 KAKUTA「痕跡」

再演だと少し余裕かましてたんですが、
稽古合流した時点で
他の皆がめきめきレベル上がってて焦りました。
演出ももう一段上で攻めて来てる感あり、
その結果、初演を大きく上回る反応を頂けたと思います。
連日満席。
それでもさらにもっと多くの人に見てもらいたかったですね。
南北賞にふさわしい作品です。

いろいろやったなぁ。
ラッパ屋あたりから前が去年感ないですね。
いつもそんなこと言ってますが。

大晦日は
島根雲南で365日演劇というものに挑戦し、
見事にやり遂げた
劇団ハタチ族の千秋楽をチェリヴァホールに見届けに行きました。

僕が昔やった一日一話一ヶ月公演「鈴木の大地」を
飲み屋で彼らに自慢したのがきっかけの一つで始まったこの恐るべき無謀。
コンビニもほぼない過疎の町のホールで、
客がゼロになったら中止という厳しいルールの中、
一桁ギリギリセーフの日も乗り越えて、
一日も欠かさぬ365日、劇場で演劇が上演されて、
何と千秋楽は約四百人収容の劇場に五百人強集まっての立ち見満員。

客入り見ただけで涙、
本人たちそのものを描いた芝居内容で涙、
言葉詰まるカーテンコールで涙、
飲み屋で挨拶ふられても涙、
感動しっぱなしで、
何か若い連中に逆に、
世の中の強いる宿命や必然を、
大いに笑って換骨奪胎する演劇の底知れぬ力をまざまざと魅せられました。

何でこれほど自分たちは演劇にとり憑かれているのか。
どうしてお金にならないのに、こういうことを死ぬほど疲れながらやってるのか。
これが25周年の我々が自らに問う「>」の大きな論点だったんですが、
「>」が終わって、
節目の一年お終わりに
遠い地でありながら、もはや前世の故郷にも思える島根の地で
無謀極まりない365日演劇の千秋楽を目撃することで、
何かが繋がったようにも思えます。

さてもう相当書いたかと思うのですが、
毎年恒例干支をからめていかないとですね。

申年。

サルといえば

今や珈琲の名前で有名な猿田彦(サルタヒコ)。
この神様は天孫ニニギノミコトが天から降りてくる時に、
道案内をしたと古事記にあります。
異形の顔で鼻がでかく、祭事では天狗のお面で表されたりします。
この猿田彦は最初天孫一派に立ちふさがるのですが、
そこでアメノウズメがしゃしゃり出て、
性的な所作をします。
すると猿田彦が魅力にまいって、道案内するという突拍子もない流れです。

このアメノウズメは、
あの天照大神が天岩戸に閉じこもった際に、
桶の上で裸踊りをして岩の外を盛り上げ、
天照大神を誘い出す役割を担った女神です。
一説ではこれが日本初の演劇で、
桶こそが日本初の舞台であると言われます。

アメノウズメが岩戸の前で行った行為は
ワザヲキと呼ばれます。
隠されたものという意味のワザを
ヲクというのは招くという意味。
つまり隠れた神意をあらわすものがワザヲキで、
これは漢字で「俳優」と書きます。
巫女のことです。

この天孫降臨の道案内のくだりで、
猿田彦とアメノウズメはすっかり仲良くなり、
そのことでアメノウズメの末裔は猿女君と名乗るようになります。
岩戸の前で踊ったアメノウズメの子孫である猿女君は芸能発祥の一族です。

この猿女君の子孫が稗田氏。
この稗田氏から出たのが稗田阿礼。
個人名というよりは官職名ではないかと思われるこの名前。
つまり稗田氏も芸能の民であろうと思われます。
芸能民であり官職でもあり。
その稗田阿礼が古事記を諳んじたと言うことは、
文字のない当時の情報伝達、保存が、
芸能・演劇の社会的な役割であって
その核心は巫女的に神がかった状態であらわれる神意であったと。

稗田村に本籍を持つ僕が、
古事記に執着するのはここにあります。

演劇というものは一体何なんだろう?

それはきっと娯楽ということではないんですね。
現代においても。
この問に対する手がかりが古事記やら古典にはあるんだと思うんです。

さあ今年もそんなこんなで演劇を追求していきます。
カムカムとしては、
7月の本公演の前に
3月劇団員有志制の短編フェスをこじんまりやります。
僕も参戦。

作者再演「熊の親切」
若手の菊川と二人であの芝居をやります。

こりゃ大変だ。
わかっています。
大変なことをやっていかないとダメだというのが、
「>」の教訓です。

そして他の何人かもそれぞれ一人芝居や初作演出などに挑戦します。
チケット少なめです。
レアな公演お見逃しなく。

そして本公演は7月

「野狂(やきょう)〜おのしのこのし〜」

その性格と奇行から“野狂”と呼ばれた貴族、小野篁(たかむら)。
いろんな不思議な力を持ち、地獄と行き来し、閻魔の側近だったと言います。
この小野篁を筆頭に、
小野小町、小野妹子ら、
小野氏には一癖ある有名人が多い。
この小野一族の大河ドラマを新作で上演いたします。

座高円寺にて。
お楽しみに!

劇団以外では4月

「詭弁・走れメロス」

一部役者も新たに再演です。すでに先行チケット発売中。

他にもいろいろ今年も出ますよ。

忙しい忙しい。

忙しくないと調子悪いのでそれでよし。
汗かかないと太るのでね。

それでは長々とお付き合いありがとうございました。

本年もよろしくお願いいたします。

                                      
2016年1月13日

at 16:49, 松村武, -

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カムストック第七十三談「羊的二元論」



皆様、あけましておめでとうございます。

2015年、カムカムミニキーナは創立25周年を迎えます。



昨年をざっと振り返りますと

1~2月ある意味激動の「有頂天家族」

3月は島根雲南にて奇跡的な合同市民劇実現「歌劇ふることぶみ 雲南Ver」

4月は切なくも派手に爽やかだった、ナライブ・もいち堂ファイナルイベント

5月は台本だけ担当した、まさにミラクル体験DANCE・EARTH「CHANGES」

6月〜7月逆囲み舞台にチャレンジ東京&奈良の「遮光器」

8月去年唯一の役者専念、個人的に代表作の一つKAKUTA「痕跡」

9月史上最大の自分の台詞量。故郷に錦を絵に書いたような大成功「郡山千本桜」

同じく9月コンサート初演出。ジェットコースターのような「木の実ナナコンサート」

10月十年前の自分に自慢したい一日、AKIRAレスラー30周年記念興行「生前葬」

11月何かひとつの劇団的集大成を感じた「G海峡」

12月新たな一歩。天才芸人さんと作ったオリジナルワールド。うさこF「まなじり」



ちょっとやりすぎですな。

アウトプットが過ぎた一年。

それはそれでよかった。

でも振り返るとインプットが足りませなんだ。

読書・映画・舞台も。

今年はインプット不足意識して行こうと思います。

まだまだ何皮も剥けていかないと。



しかし総じて言えたのは、

旅をすることがよいということかな。

今年もせいだい旅をしようと思います。

旅人。



旅人と書いて“たびんど”と読むタイトルの小説を構想して十年以上経ちますが、

小説にはならなくても

ひとつ“たびんど”という精神で何かと臨んでいこうかと思います。



さて、このコラム

年頭にあたって干支にちなんだ文章を書くだけのブログになっていますので

せめてそれくらいは書かないとと思いまして。



羊か。

かつて年頭に羊について書いた記憶がありますね。

十二年干支について毎年書いたということか。

それは凄い。

全くそんな意識がない。



月日とはそんなものですかね。

二十五年なんて言われても

四半世紀なんて言われても

全くそんな意識がない。

四十五歳だと言われても

全くそんな意識がない。



他人に四十五歳相応に見えていること

ともすればそれ以上に見えていることが

全く意識できていない

親がそのくらいの歳の時に

僕は東京に出て劇団を旗揚げしてるわけですから。

その感じは全く想像がつかない。



そこには、まるで夢のような飛躍がある。

その飛躍はロケットや飛行機が飛ぶような、

あるいは鳥が飛ぶような大きなジャンプでは決してない。



それはまるで

羊が柵を飛び越えるような飛躍である。



その羊は

眠れぬ夜の羊か。

眠れる羊か。



ん?



ことほどさように羊は人を惑わせる。



前にも書いた。

羊にはどこかおかしなところがある。



羊にはいつもある疑いを持ってしまう。



「あの中に何か入っているのではないか?」



そういうものが柵を飛び越える。



眠れないのは僕なのか。

柵を飛んでいる羊なのか。



あるいは羊の毛の中に隠れた何者かなのか。



あるいは

あのくるりと巻いた角は

時空次元の捻転なのか。



話はまさに羊のように“飛躍”するが

映画「インターステラー」に満ちていたあの飛躍

腸捻転的な時空次元の飛躍。

時間の堂々巡りの中での

一本筋男的な“愛”とでも言うべき思い



ちなみに

一本筋男というのは

カムカム旗揚げ作品「迷宮博士」に出てくる男で

吉田さんが演じました。



そういえば

「迷宮博士」も“飛躍”の話だった。

イカロスとダイダロスの神話が元でした。



見た人しかわからない

かつネタバレなんで嫌な人は読み飛ばしていただけるといいんですが、

「インターステラー」で

あの無限の書棚の裏から覗いてるシーンが

非常に、羊的ですね。

ぐっときますね。



それが畳まれていくところもね。



まさに今、無限と書いて変換したら夢幻と最初に出たんだけれど、

無限と夢幻は口に出して言うと同じなんだな。



何か入ってるんじゃないかと疑いながらも、

何も入ってない羊がいて、それを目撃してるのかもしれないとも。



25周年というところで、

まあ興行的なテンションはもちろん上がります。

そこは楽しみにしておいていただきたい。



でも創作するテンションは、

そのようなものは

おいそれと節目だからって変化するようなあれではないんですが、

ふと今旗揚げ作品のこととか振り返ってる感じが、

そしてそこから成長したなとか、

変わってないなとか

そんな次元では結局ほとんど感慨がなくて

まさにあの書棚の裏からあの作品を覗いてるような、

その書棚が25年分宙に浮いてるような、

いや

宙に浮いてるのは自分の方か。

それとも

あれはどちらも浮いていたのか。

宙も何もないのか。

夢幻(無限)の空間だから。



こうして思うと、

まあそんなことはありえないけど

時間ってものを飛躍したものの見方ができたかのような錯覚にも陥る。

四次元的な。



そう。

羊という存在はそのように四次元的なものへの手がかりを

錯覚という形で与えてくれる魔術的な記号なのです。



それは時間の柵を飛び越える。

夢現の柵を飛び越える。

忘却と記憶の柵を飛び越える。



忘却がない場合、

人はすべての夢を覚えていることになるのでしょうか?

それとも夢を見なくなるのでしょうか?



あるいはその問いは

死がない場合

というくらいに不毛な問いなのだろうか。



だとすると

夢がない場合

という問いはどのくらい不毛だろうか。



そもそも仮定というものが不毛なのだろうか。

しかしすべての作品は仮定みたいなものである。

すべての作品は不毛なのだろうか。

その不毛さと不毛でなさの柵を飛躍する者こそ

フサフサ毛の羊である。



羊毛とは何だ。



羊毛で覆われている本体は何だ。



やっぱり羊についてつらつら書いていくと

とりとめなく続いて眠れなくなる。

あるいは、

眠くなる。



眠れぬ夜の羊の皮を剥ぎ、

眠れる羊を揺り起こす。



それが我らの”飛躍”と信じ。



わけわからないですね。

羊的にふわふわと書いてみたらやっぱりこうなるのです。

しかし皆さん、

よくわからないことにこそ大事なポイントが隠されている

はず。

それは隠れているからよくわからないのです。

たぶん。

だからこそ掘り起こす価値がある。

恐らく。



羊問答でした。



最後に具体的?な告知を。



カムカムミニキーナ25周年は二本立て!



まずは5月本多劇場他にて

「スワン・ダイブ」

これは信州諏訪地方の神話と日本各地の白鳥伝説などを題材に

いろんなことが巻き起こる話。



そして11月座高円寺

「>(ダイナリィ)」

これは全国に広がる稲荷・狐信仰の説話を題材に

いろんなことが巻き起こる話。



両公演とも例年以上に豪華ゲストを迎えてお送りする予定。


お楽しみに!



2015.1.5



*ちなみに一回り前の羊年のコラムです。

http://comestock.jugem.jp/?month=200301

at 01:24, 松村武, -

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カムストック第七十二談「馬の耳に念仏」

皆様、あけましておめでとうございます。

2014年もカムカムミニキーナをよろしくお願いします。



昨年もまたいろんな舞台に携わらせていただきました。



「詭弁・走れメロス」で森見登美彦作品に挑戦させていただき、



「ダンスアース」でEXILEさんと組ませていただき、



劇団鹿殺し「BONESONGS」で覆面レスラーを演じさせていただき、



そしてカムカムではサラウンドミニキーナ&ナライブでの、

「熊の親切〜閻魔悪餓鬼温泉騒動記〜」



それらをすべて経ての2013年のメインイベント

「クママーク〜隈膜下蜘蛛真赤熊野千年真悪乃生意気〜」



自分の中ですべての仕事は繋がっています。

その一つの結節点として、

「クママーク」は大きな成果のある作品でした。



しかし、まだまだ戦いは続きます。



すでに森見作品挑戦第二弾「有頂天家族」は幕開き秒読み。

古事語り部座では「ふることぶみ」が島根雲南と画期的な合同市民劇。

市制60周年記念の新作「郡山千本桜」もあります。

カムカムもまた新たな切り口で二作品の新作を構想しております。



他にもいろいろあります。

今年もどうぞお楽しみに。



さて年頭にあたって毎年干支にちなんだ文を書いておりますが、

今年は午年でございます。

馬と言えば、ことわざやら逸話に事欠かない存在ですが、

やはりまず出てきますのが

「馬の耳に念仏」

馬に念仏聞かせても意味ないやんかという諺です。



確かに馬の耳に念仏聞かせても、

意味もありがたみもわからんやろうし、

それは無駄な行為という喩えではあるんでしょうが、

逆に考えると、

人の耳に念仏聞かせて、

果たして一体どのくらいの数の人が、

その意味とありがたみを理解し、有益に役立てているのでしょうか。



念仏、お経というのは意味のある文章です。

子供の頃は意味も分からず、

「なんまいだーなんまいだー」

って音感だけで言ってたりしましたが、

これは決して適当な文字の羅列なのではなく、

非常に奥深い思想を言葉にした、

意味の塊のようなものです。



非常にざっくりと言うと、

元来の仏教はそこに書かれた言葉の意味を

常人ならざる修行と不断の思索、勉強に励むことで

理解し、記憶し、実行することで、

成仏という道を目指すというのが、道でした。

それは、僧侶というその道のエキスパートだけが関わることのできる類のものでした。



しかしいつしか大乗仏教というものが現れ、

意味の理解も修行も、そういう専門的な努力を伴わずともただ、

「なむあみだぶつ」

と唱えていれば、

浄土への道があるのだということを言いました。



それだけ聞くと

その場しのぎな安売りの必勝法のようにも思えますが、

戦乱飢餓の悲惨が常の世の中において、

どこを向いても救いのない普通の人生を送っていた人々にとって、

これほど有難い話はなかった。

難解な思想を理解し、人間離れした修行に励む超人にはなれなくとも、

ただ、意味も分からず、

その謎の言葉を真面目に繰り返しているだけで、

悲惨な日常から救われる道があるというのですから。



だからこの国で大乗仏教は広まりました。

今も日本の人のかなりの割合が、

そのように仏教を、

ともすれば宗教というものを捉えているのではないでしょうか。

それがすなわち

「なんまいだーなんまいだー」

です。



まるで馬の耳に念仏を聴かせるように、

人の耳に聴かせる念仏も、

ほとんどの場合、全く意味は通っていない。

しかし馬と違って人の耳には、その言葉のありがたみが通ります。

「なんまいだー」の意味はわからずとも、

そこには自他を問わず浄土へと通ずる願いと、

それを適えてくれる大きな存在への畏れ敬いの思いがあるからです。



経には塊のような密度の意味があるのだけれど、

大事なことはその意味を逐次理解することではなく、

その言葉が音声として発せられるという現象、事実であり、

その物理的に音声として発せられた音の羅列にこめられた思いである、ということでしょうか。



これはつまり歌です。

歌にはもちろん意味があります。

しかし歌は、その歌詞に込められた意味を理解することが大事なのではなく、

それが実際に声に出して歌われること、

それを実際にただ声に出して歌うことの方が大事なのだということ。

そしてその歌を歌う時に、そこに歌う本人がこめる思いこそが、

何よりもその歌にとっての価値なのだということ。



これはつまり芝居です。



もちろん、

常人ならざる修行と不断の思索、勉強に励むことで

理解し、記憶し、実行する芝居の技量というものはありましょう。

それを追求する芝居道もありましょう。



しかし一方で、

意味の塊たる芝居が、

音そのもののように物理的な要素として発せられ、

その発せられた要素の意味よりも、

その音が実際に発せられるときにこめられる願いや畏敬の思いこそが、

観客という他人に届く唯一の価値であると考える道もある。



これはつまり祈りです。
祈りの言葉は意味よりも発せられることこそが大事。

そしてその祈りを発する思いこそが価値。



つまり何が言いたいのかと申しますと、

「馬の耳に念仏」は無駄ではない。

そこに、馬に向かって仏の言葉を吐いた何者かの、

何らかの願いと畏敬が存在するのであれば。

あるいは対象たる馬に、

そのようなものが存在するのであれば。



本年もカムカムミニキーナをよろしくお願いします。

ここのところ意味で追うと非常にややこしい芝居ばかりですが、

もはやリアリティとか上手下手とか洗練とかわかりやすさとか言ってる感じでもないと思ってまして

要は、恣意的なるその物理的な言葉と段取りの羅列に

出来うる限りの限られた修行を重ねつつ、

とどのつまり、

どれだけの願いと畏敬を込めて

その経を声に出して読み上げ、

その歌を声に出して歌い、

その祈りの言葉を口にするかであろうと考えています。



2014年 年頭














at 00:11, 松村武, -

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